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JOG(49) 終戦後の戦い

 日本はポツダム宣言の諸条件を承認して降伏したのに、いつのまにか、それらは骨抜きにされ、条件があった事すら、検閲により忘れさせられた。


■1.終戦後の戦い■

 昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、戦闘を停止した。しかしこれは「戦闘」の終了であって、日本と米国占領軍との武器なき「戦争」はその後も続いていた。しかもこの過程で、戦後の日本の政治やマスコミの歪みが作り出されたのである。その過程をたどってみよう。

■2.重光外相の恫喝■

 9月2日、日本政府はマッカーサー司令部から、日本全域に渡って軍政を布告する旨の命令を受け取った。重光外相は翌3日早朝、マッカーサー総司令官に面会し、軍政を思いとどまるよう交渉した。

 重光外相の主張は、日本全域に渡って軍政を敷くことは、日本政府が受諾したポツダム宣言の諸条件以上の要求であり、もしそれを強行するなら、「日本政府の誠実なる占領政策遂行の責任を解除し、ここに混乱の端緒を見ることとなるやも知れぬ。その結果に対する責任は、日本側の負うところではない」というものであった。[1,p33]

 ポツダム宣言第7条には「連合国の指定すべき日本国内の『諸地点』は、・・・占領せらるべし」とあり、全域を占領する事は明らかに宣言の違反となる。また第8条には、「日本国の主権は本州、北海道、九州、及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」とあり、政府の主権の存在を前提にしている。日本全域に渡って軍政を敷くことは、あきらかにこれらの条件を破ることであった。

 重光外相は、アメリカが自分で言い出した停戦の条件を勝手に破るなら、日本政府がそれを守る義務もなくなり、その後、どうなってもすべてアメリカの責任だと脅したのである。

 当時日本本土には陸軍二百二十五万三千、海軍百二十五万、 計三百五十万余の兵力が依然として温存されていた。また陸海 軍を合せて一万六十機の保有航空機のうち、少くとも六千機以 上は特攻作戦に使用可能と考えられていた。・・・

 海軍こそ戦闘可能の戦艦は皆無で、空母二隻、巡洋艦三隻、 駆逐艦三十隻、潜水艦五十隻という劣勢に追い詰められていたが、この温存兵力の無言の圧力は無視することができない。 [2,p16]

 マッカーサーは、重光外相の主張をただちに承諾し、軍政の方針を撤回した。しかしこの緒戦の敗北で、米軍は日本人を精神面からも占領しなければならないと決意したようだ。以後、アメリカの占領政策は、巧妙に情報戦を展開していく。

■3.言論統制:ポツダム宣言第10条違反■

 その第一弾は、言論統制であった。ポツダム宣言第10条の「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立せらるべし」という条項を無視して、秘密裏に検閲と言論統制を開始した。

 朝日新聞が、昭和20年9月18日から、48時間の新聞発行停止を命令されたのが、その始まりだった。その理由とされたのは、次の二つの記事であった。

 第一に、占領軍将兵による暴行事件に触れた記事。現実に13日から14日にかけて、米兵が拳銃を使って現金を強奪したなど、32件の事件が発生している。

 第二は、鳩山一郎氏の談話記事で、次のような発言を紹介した部分。

「正義は力なり」を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用 や無辜の国民殺傷(本誌注:本土空襲を指すものと思われる) が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪である ことを否むことは出来ぬであらう。

 業務停止命令が解除された後の朝日新聞の論調は、180度転換した。たとえば、次の二つを比較されたい。

 戦ひはすんだ。しかし民族のたゝかひは、寧ろこれからだ。 ...国民は敗戦といふきびしい現実を直視しよう。しかし正当に主張すべきは、おめず臆せず堂々と主張しよう。単なる卑屈 は民族の力を去勢する。[9月10日]

 今や我が軍閥の非違、天日を覆ふに足らず、更に軍閥の強権 を利用して行政を壟断したる者、軍閥を援助し、これと協力して私利を追求したる者などの罪科も、ともに国民の名において糾弾しなければならぬ。[9月22日]

 前者は占領下でも精神的独立を維持しようと呼びかけたものだが、後者は完全に米軍の情報戦に荷担したものである。同じ新聞でわずか2週間足らずの間にかくも論調が一転したのである。[1,p61-p68]

■4.改憲:第12条違反■

 翌昭和21年2月13日、総司令部ホイットニー准将は幕僚と共に、外務大臣吉田茂の官邸を訪れた。そして、今まで日本政府が検討していた憲法改正案をまったく不適当であるとし、総司令部の作成した憲法草案を手渡した。吉田の顔はショックと憂慮の表情を示していた。

 ホイットニーは吉田が草案を理解し、検討するための時間を与えると言って、約30分間、庭に出た。その時、米軍機が一機、家の上空をかすめて飛び去った。15分ほど経った頃、外務大臣秘書官の白洲次郎が庭に出ると、ホイットニーは言った。

「われわれは戸外に出て、原子力エネルギーの暖をとっている ところです。」

 太陽をわざわざ「原子力エネルギー」と言ったのは、あきらかに原爆を暗示しての恫喝である。庭から戻ったホイットニーは、もし総司令部の草案に日本が同意しない場合は、マッカーサーは日本政府の頭越しに草案を国民に提示するだろう、その場合には総司令部は「天皇の御身柄」を保証しかねる、とも明言した。

 さらにホイットニーは、日本側の記録によれば次のように語った。

 改正案は飽くまで日本側の発意に出つるものとして発表せら れる事望ましく、万一米国案が世間に漏れるときは甚だしき双方の不為なれば秘密保持に甚大の注意を払われたく

 これはポツダム宣言12条の「日本国民の自由に表明せる意思に従い」、および、さらに国際法たるハーグ陸戦規則第43条の「占領地の法律の尊重」への違反を隠蔽するためであった。

 こうしてマッカーサー総司令部の手になる憲法草案は、あくまで日本側の発意によるものとして制定された。マッカーサーは後に、「どんなに良い憲法でも、日本人の胸許に銃剣をつきつけて受諾させた憲法は、銃剣がその場にとどまっているだけしか保たないというのが自分の確信だ」と述べているが、その確信を裏切って、マッカーサーが「銃剣」でつきつけた憲法は、一文字も改正されずに53年後も残っている。[3,p33-p43]

■5.情報戦によるマインド・コントロール■

 53年後の今日、我々は今なお、次のような虚構を信じ込んでいる。

・日本は無条件降伏をした。 →すでに示したように、ポツダム宣言の8項目の条件を受け入 れた上での条件降伏であった。

・「進駐軍」は言論の自由を回復した。 →占領軍は検閲自体を秘匿する従来以上の徹底的、かつ高度な 検閲を行った。

・憲法は日本側の草案によるものである。 →原爆の恫喝のもとに、押しつけられたものである。

 これらは終戦後に占領軍が展開した情報戦の成果である。日本はポツダム宣言の諸条件を承認して降伏したのに、いつのまにか、それらは骨抜きにされ、条件があった事すら、検閲により忘れさせられた。武力による敗北は、被害も目で見える。しかし、こうした情報戦の敗北は、敗者自身が気がつかないようにマインドコントロールすることによって、永続的な隷従状態におく。

 このマインド・コントロールから脱却しない限り、戦後は終わったとは言えないであろう。

[参考]
1. 「忘れたことと忘れさせられたこと」、江藤淳、文春文庫、H8
2. 「敗者の戦後」、入江隆則、徳間文庫、H10
3. 「一九四六年憲法-その拘束」、江藤淳、文春文庫、H8

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