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バツイチフリーランスエンジニアが元同僚と雑な宅飲みするだけの話(小説)

※大人の恋愛小説になるはずだった未完の作品から抜粋して公開しています。ほぼ会話なんですが、やり取りの中で性格や二人の関係性を感じ取ってもらう、情報処理の習作。

 夕暮れの中、打ち合わせからの帰宅。風が出てきたのもあって、都心から少し離れた住宅街は、暑さがいくらかマシな気がした。肌にへばりつくワイシャツを引っ張って空気を入れる。クールビズとはいえ、客先へ行くときはワイシャツにネクタイくらい、と考えたのはおそらく間違っていない。おかしいのは日本の異常なほど湿っぽい暑さで、こんな時に外出しなければならないとは、営業マンは大変だ。

 僕はエンジニアだが、ここ半年はフリーランスでやっている。会社勤めの頃はほとんど空調の効いた社内で手を動かしていたので、真夏の日中に移動することがなかった。服装も自由だったから去年は毎日ポロシャツで通勤していたし、休暇にはわざわざ海やテーマパークへ家族旅行に行くだけの余裕もあった。たぶん去年も一昨年も猛烈な暑さだったはずだが、覚えているのは娘のはしゃぐ姿や妻の笑顔だったり……で。
 自宅に着いて、熱を帯びた門扉を開ける。玄関まで三歩、両脇は雑草だらけだ。明日こそ早く起きて草むしりをしようと通るたびに思う。
 家に入るとこもった熱気が襲ってくる。背後でドアが閉まり、光と音が遮断される。鍵をかけて廊下の電気をつけ、突き当りのリビングに駆け込んでエアコンのスイッチを入れる。換気したいところだが、窓を開けても湿気を取り込むだけなので、しない。
 リビングの奥にある対面式のキッチンで、水道をひねる。出てくるのはお湯だ。しばらくしてやっと水らしい温度になり、コップ一杯、それを飲んだ。

 シャワーで汗を流し、トランクス一枚で髪を拭きながらリビングに戻る。よく冷えた部屋にエアコンの音だけが響いている。冷蔵庫から缶ビールを取り出して一口飲むと、思わずため息が漏れた。今日中にやりかけの設計書を仕上げてしまうつもりだったが、決心が揺らぐ。鞄からスマホを出すと一件の不在着信を教えていた。ゴリ山さんだ。

 ゴリ山さん――森山茂氏は前職の先輩で二つ年上だった。大柄で毛むくじゃらな割に、温厚で世話好きな彼は、「ゴリ山」の愛称で親しまれている。同じ部署で働いていたときは仕事帰りによく飲みに行った。一度だけだが、お互いに妻子を連れて河原でバーベキューをしたこともあった。今でもたまには飲みのお誘いがある。それで、表示を見た瞬間に僕のやる気は消し飛んでいた。
 折り返し電話をかけると、彼はすぐに出た。
「おお、さみしま。元気かあ?」
 野太い声が相変わらず暑苦しい。
「鮫島ですよ、なんなんですかもう……」
「一人で寂しいだろ。暑いからビールでも飲みに行かないか。今どこだ」
「自宅です。先ほど御社から戻ってきたところですよ」
「中田の案件か。順調らしいじゃないか。中田も少しは成長したろ?」
「だいぶハンドリングがこなれてきましたね。クライアントのワガママに振り回されなくなった」
「別件でかなり厳しいプロジェクトに当たったからな。……ところで、どこに行く? 俺はまだ会社だ。これから出る」
「そうですね……」
 西側のカーテンの隙間から外を見ると、すでに暗くなっていた。サッシを開けると明らかに質量の違う外気が流れ込んでくる。今夜も寝苦しそうだ。さっぱりした直後、またこの中に出かけていく気にはなれなかった。
「ゴリ山さん、うちに来ませんか。ビールなら冷えているので。泊まってもいいですよ」
 僕の提案はすんなり受け入れられた。嫁のOKが出れば、だが。

 二十時を少し過ぎた頃、ゴリ山さんは両手にコンビニのビニール袋を提げてやってきた。Tシャツの上半分が汗に濡れて色が変わっていた。出迎えた僕に袋をひとつ渡し、彼はリビングの手前にある風呂場へ向かう。
 僕はリビングへ行き、渡された袋から惣菜を出してテーブルに並べた。最後におにぎりが三つ出てくる。これはゴリ山さんの夕飯だ。僕は酒を飲むとご飯は入らないほうだが、ゴリ山さんは米か麺を必ず食べる。ソファーに座ってつけっぱなしのテレビを眺めながら、僕は二本めのビールを開けた。
「まったく、バカみたいに暑いよなあ。どうなっとるのだ日本の夏は」
 ゴリ山さんは首にタオルをかけてリビングに入ってきた。真新しいTシャツは早くも汗に濡れていたが、気にはならないようだ。脱いだものを丸めて部屋の隅に置き、テーブルの前にあぐらをかく。
「まあまあ、ともかくはお疲れ様です」
 僕は冷蔵庫からビールを出して渡した。軽く缶をぶつけて、それぞれに冷たい液体を流し込む。
「ああ、生き返るなあ!」
 ゴリ山さんは缶をテーブルに置いた。聞かなくても空になっているのは知っているので、僕はおかわりを取りに立った。飲む分以外を冷蔵庫から出さなかったのは、風呂上りの汗が引くまでは冷たいのを、という、せめてものもてなしだ。今度はまとめて三本、テーブルの上に置く。彼はさっそく手を伸ばした。
「今日は早かったですね」
 僕は割り箸を割って惣菜のフタを外した。
「ひとつデカいのが片付いたからな。来週打ち上げだ」
 ゴリ山さんはおにぎりにかぶりつく。僕は少しテレビの音量を下げて、フタを取り皿にして惣菜をつついた。ゴリ山さんに目を戻したときには、彼はもうおにぎり三個分の包装紙を丸めてごみ箱に放り込んでいた。
「それで、どうよ、さみしまさんは」
 新しいビールを片手で開ける。「まださみしまさんかい」
「こないだ会ってから半月くらいしか経ってないでしょ。変わりはないですよ」
 僕はぬるくなった缶の中身を飲み干した。
「一軒家に一人で籠ってシステム開発なんて、寂しいだろうが。戻ってきてもいいし、せめて常駐したらいいのに」
「仕事はどこでも一緒ですよ。在宅に慣れると通勤には戻れませんね」
「俺が寂しいんだよお~。戻ってきてよ鮫ちゃーん」
 ゴリ山さんが両腕を広げて猫なで声を出し、
「うわ! 気持ち悪い!」
 僕らは大声で笑った。
 僕が離婚したのは去年の秋で、僕にしてみれば突然の出来事だった。結婚して十二年。仕事仕事の毎日、休日は寝て過ごす。家事育児は専業主婦の妻に任せきりだったけど、できるだけ家族サービスはしていたつもりだったし、妻も娘も愛していた。特に喧嘩をすることもなく、平凡だけれど幸せな家庭を築けていた――と、思っていたのは僕だけだった。
 「さみしま」と言って茶化す、ゴリ山さんらしい優しさには感謝している。そうやって言われると、結婚していたことも離婚したことも、僕ではない別の人間だったように感じた。今は一人で仕事だけしている。それが事実で、僕のすべてだ。

 いくつか惣菜のパックが空いてきたので、僕はそれを片づけるためにキッチンへ立った。
「まあ、仕事のほうはさておき、だ」
背中にゴリ山さんの声が飛んでくる。「誰かいないのか、その……」
「女性関係ですか?」
 僕は流しで軽くパックをすすいでから、ごみ箱に入れた。冷蔵庫から追加のビールを出して戻るのを待って、ゴリ山さんが続ける。
「女っていうか、パートナーだよ」
「嫁とか妻とか女房とか家内とかですか」
「別にそんなんじゃなくてもさ」
 彼は顔を上に向けてビールを飲み干した。新しい缶を開け、一口飲んでごろりと横になる。

「まだ若いんだしさ。彼女つくれよ」
 このところ親があいさつ代わりにしている言葉だった。僕は空き缶をビニール袋に片づけて、冷えている缶に手を伸ばした。プシュッという小気味よい音、冷たくはじける液体がのどを通っていく。
「三十九は若いですかね」
 僕の答えに、ゴリ山さんは「若いよ」とつぶやくように言った。
「少なくとも俺よりは」
「大して違わないじゃないですか」
 僕もソファーの上で横になった。合いの手を入れるようにテレビから笑い声がする。女性タレントが甲高い声でしゃべり、男性司会者の声がそれに突っ込む。CMが入る。
 ゴリ山さんの動く気配がして、テレビが消えた。エアコンが風を吐き出している。僕は寝そべったまま、体をテーブルのほうに向けた。テーブルの向こうに、起き上がって缶についた水滴を指で落としているゴリ山さんが見えた。
「大学時代の後輩でな」
 彼は濡れた指を自分のシャツで拭いた。「いるんだ、ひとり」
「優良物件ってやつですか」
 尋ねると、彼は笑った。
「いやあ、違うな。もう四十だし」
「勿体ぶりますね、ずいぶん」
「興味のないやつが言うなよ」
「まあね」
 僕はソファーの上から自分のビールを取ろうとしたが届かず、あきらめて座りなおした。残り少ない惣菜がゴリ山さんの箸にさらわれていく。彼は頬張った惣菜をビールで流し込んでから言った。
「自分より長く生きる。条件はそれだけだ」
「条件?」
「相手に求める条件。……ちょっと変わったやつなんだ。見た目はそこそこなんだけどな。早くに父親亡くして母親と二人暮らししてたんだが、こないだ母親のほうも葬式で。それまで結婚なんていいって言ってたやつが、誰かいないかって頼んできてさ」
「それで僕ですか」
「そう。さすが鮫ちゃん、話が早いわ。ま、お前のためっていうか後輩のためってとこ」
 ゴリ山さんは豪快にゲップをして再び横になった。
「自分より長生きなんて、わからないじゃないですか」
「だよなあ? ま、自分でバリバリ働いてるし、男なんかいなくても大丈夫そうなやつなんだけどな。親戚はいるだろうけど、兄弟はいないから、ひとりになって何か思うところがあるんだろ。気になるなら、会って聞いてみろよ」
「気になるってほどじゃないけどね」
「そこは俺の顔を立てると思って会ってみろよ」
「どっちにしても、じゃないですか」
「その通り。さすが鮫ちゃん、話が早いわ」
「追い詰めますねえ」
 笑って、ビールを口に含む。すでにぬるくなっていた。
「でも、よかったよ」
 ゴリ山さんは寝返りを打ってこちらに背を向けた。「怒られるかと、ちょっと思った」
「怒る?」
「半年前はとてもこんな話できるような雰囲気じゃなかったよ、お前。会社辞めてもっと忙しくなって、飲みに誘うのも気が引けた」
 でも誘ったな、とゴリ山さんは歯茎むき出しの笑顔で僕を見た。首をひねったときの勢いが良すぎたらしく、彼は首を押さえながら仰向けになった。テーブルにはまだ開けていないビールが一本、大粒の水滴をまとって佇んでいた。

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