第1話 千里を薙ぐ少女|火竜姫
あらすじ
プロローグ-千里を薙ぐ少女
01
呼吸と鼓動がふたつずつ、森の中を走っていく。ひとつは若い男、騎士。短剣で藪を払って突き進む。その後にもうひとつ。女……少女。
どのくらい走っただろう。いつのまにか陽は落ちて、木々の隙間からわずかにのぞく星空がかろうじて方角を教えてくれている。
形ばかりの隊列は崖上から浴びせられた矢に散り、千里を薙ぐと言われた〝特別な〟少女の魔法も、今は月のない獣道で一歩先を照らすのが精一杯だ。指先に灯る炎は、それでもやっと、川を泳ぎきり、追手の気配と奴らの犬の鳴き声が届かなくなって、今、点けたばかり。蝋燭ほどに絞っても、濡れた体では野営に足るほど放出し続けられない。
水に入るのは避けたかったが、騎士が脇腹に刃を受けてしまった。血と匂いを垂れ流して川沿いに逃げても追いつかれるのは時間の問題。ありったけの魔力で川岸に火壁をぶち上げて、流れに飛び込むしか選択肢はなかった。
指先から火花も出なくなる前に運良く見つけた岩陰で、足元の枯葉を集めて火を移す。小枝が爆ぜ太い枝が赤く光りだす頃には、呼吸も鼓動も落ち着いていた。これで朝までは、少なくとも第二の敵──獣や魔物に襲われる心配はない。冷えた体も温められる。
騎士も少女もそれぞれに安堵の溜息を吐いた。とたんに疲労が押し寄せた。ふたりしてへたり込み、岩に寄りかかる。
「怪我はないか?」
騎士が問う。答えようと少女が口を開きかけたところに畳み掛ける。「寒くないか? 腹は減っているか? といっても何もないな。熱は? 機嫌は……」
「一度にまくしたてるな! 大丈夫だ!」
むくれた少女に笑い、火に枝をくべる。揺らめいた炎に照らされた少女の泥だらけの顔にも、緊張の色はもうない。
「おまえこそ、傷は?」
「こんなもん、もう塞がった」
「嘘だ」
「本当さ。見るか?」
衣服をめくる仕草をしてみせ、少女が首を振るのを見てまた笑った。
とにかくあの場を離れるのが精一杯で、手当などしていない。だが出血が続いている様子はなく、途中少女を担ぐこともできた。塞がるのは無理だろうが、そう深い傷ではなかったのかもしれない。
「じゃあ、俺は寝る」
騎士は岩にもたれたまま黒く汚れた手を剣の柄にかけて、目を瞑る。「おまえも寝ろよ、〝火竜姫様〟」
「その呼び方はよせと言っているだろう」
少女の抗議に騎士は口角を上げただけだった。軽口を叩いてごまかしているが、騎士とて消耗している。さっさと自分だけ寝る男が勝手に見えるが、休める時に少しでも回復を図るのは戦う者の定石だ。いつまでも目を開けていたら、少女が寛ぎにくいのもある。
少女は焚き火に近寄り手をかざした。明るさと熱に癒される。騎士からの死角を確認して、ブーツを脱ぐ。ローブの裾をたくし上げると、鱗に覆われた向こう脛を露わにした。鱗が乾けば調子が戻る。
少女にとって炎はこの体に流れる血であり魂であり、疑う余地のない故郷だった。
瀕死の魔女が火の精霊サラマンダーの生き血を飲んで蘇り産んだという出生秘話は、当の少女も疑っている。確かなのは、熟練した魔法使いでも御しきれない規模の炎を操る力と、腕や脚に所々、鱗の皮膚。純粋なヒトではない何かであること。
「火竜姫」は嫌だと言っても、ほかに呼んでほしい名があるわけでもない。物心ついた頃からの名はあるが、誰が付けたかも知れない記号は無意味だ。少女の事情も性格も知った騎士だけができる、お約束の冷やかしだった。
夜明け前にはここを離れるだろう、それまでに少しでも回復しておかないと。榾の弾ける音を聞きながら、膝を抱えて目を閉じた。
02
「火竜姫」──卑賤な生まれながら、類い稀なる力を認められ、他国への脅威として政治に寄与した、功績に付けられた地位と称号。半島の制圧後、用済みの火器は中央から離すべしと言わんばかりに北部国境の守護を任ぜられ、向かう旅の途上だった。
最小限とはいえ護衛の分隊を組み、指揮に騎士まで据えたのは、まだ少女に幾許かの価値を認めてのことだろう。もっとも、物の例えとはいえ〝千里を薙ぐ〟ほどの火力があるのだから、護ってやらねばならないのは従者のほうかもしれなかったが。
襲ってきたのがただの野盗でないことは、少女にもわかっていた。奴らは少女が炎を広げにくい地形で待ち伏せ、矢で隊列を崩し、犬を放って川へ追い込んだ。少女が水を嫌う性質だと知っていたのだ。水際で仕留められなくても、川に入れば弱体化する。
少女への直接の攻撃がなかったところを見ると、生け捕りを目論んでいたようだ。希少価値、利用価値、研究する価値……。知らぬうちに生を受け、ただ存在しているだけの自分を、大人は勝手に値踏みする。いずれにせよ、少女にとっては嬉しくないのは間違いない。
扱う魔法の特長や弱点から、手前に有利な地形へ隊が差し掛かるタイミングまで、よく調べて周到に用意されている。隊に敵国のスパイでも紛れ込んでいたか、買収された者でもいたか。矢の雨に四散した兵士たちの顔はもう思い出せない。川辺で大技を放った時、すでにすべてが敵だった。
こうして狙われる突き抜けた能力と特殊な事情。ある者はその待遇を妬み、ある者はその出自を蔑み、多くはその力を畏怖した。少女もまた、自分を色眼鏡で見る大人たちに、衣食住の充足以上を求めなかった。
唯一、大人が作り上げた垣根を越えてきたのがこの騎士だ。騎士であるうちは位が下だが、代々将軍を輩出する名家の子息。少女を見出したのが父である現将軍だったこともあり、仕官するまでの数年を同じ屋敷で暮らした。気安くからかっては怒らせ、怒らせては笑って、兄貴風を吹かせてくる。とはいえ、家族も友もいない少女には、「兄」とはどんなものか知る由もない。ただ暑苦しい隣人で、ちょっかいを出されるたびに迷惑するが、孤独に慣れているはずの心は騎士の不在に寂しさを覚えた。
今回同行することになったのは騎士の申し出だという。父君が許したのは思惑あってのことだろう。大人の事情とやらは、いつも当人に断りなく組み込まれる。
03
炭が崩れる音で少女は目を開けた。いつのまにかくべた枝は燃え尽きて、残った火種が静かに赤く光っている。暗闇の中で静かに灯るそれは敗者が隠し持つ復讐心のようだった。
枯れ枝を差し入れては息を吹きかける作業を何度か繰り返し、やっと炎が上がる。焚き付けは慣れない作業だった。何かを灰にするのが仕事だったのに、今は懸命に火を守っていると思ったら、笑いがこみあげてきた。
「少しは眠れたか?」
騎士の声がした。寝始めと同じ姿勢で、目を閉じたままだった。どうやら一人笑いは見られずに済んだらしい。
まあ、と少女は掌で笑みを拭った。頰で乾いた泥が落ちる。気づけば体温も戻り、指先にも力が入る。この調子なら、横にならなくても朝までには小技のひとつふたつは出せそうだ。
騎士の体力も回復しただろうか。少女は問いかけたが、騎士は返事のかわりに、少し話してもいいか、と切り出した。
「国境まで行くのは、やめにしないか」
騎士の提案は意外なものだった。将来を約束された若き貴人。務めを果たして中央へ帰れば、ゆくゆくは軍の要職に就くはずの。
少女は改めて騎士を見つめた。岩に体重を預けてはいるが、膝を立ててすぐに剣を抜ける体勢をとっている。表情は読めない。
「さっきので死んだってことにしておけばいいさ。この森を抜けたら、ふたりして違う名を名乗って、別人として生きるんだ。力を隠して」
騎士が言葉を継ぐたび、少女の鼓動は早まった。魔法を使わない自分など想像したこともなかった。誰よりも力を必要として、利用して生きていたのは他ならぬ自分だと思い知った。特別であることに翻弄された半生。しかし、平凡であったなら、ここまで生きて来れただろうか?
「国境まで行くなら、越えて他国に入ってもいいかもな。名前は、ありふれているものにしよう。マルリルなんてどうだ? おまえは俺のを考えてくれよ」
「……だから、次から次へとまくしたてるな」
少女はやっとそれだけ返した。炎を取ったら何の取り柄もなくなる事実にたじろいだばかりだというのに、今はもう、普通の少女としての生活を想像し始めている自分に戸惑う。小さな民家で、騎士と囲む質素な食卓──悲しいかな、平凡を知らぬ少女にはその程度の絵しか描けない。ただ、騎士がそばにいてくれるなら、まだ眩しくて見通せない道のりをどこまでも行ける気がした。
ぱちん、枝が爆ぜる。少女は現実に引き戻された。自分が凡人として新たな一歩を踏み出すのはいい。だが、騎士にとっての最善は中央に帰ることだ。森を抜けるまでは協力するとしても、その先はそれぞれの向かうべき場所へと道を分かつべきだろう。
言おうとして、少女より先に騎士が口を開いた。
「一緒に行きたかったが」
区切って、息を吐く。「……どうやら、難しいようだ」
騎士の口の端から血が流れ出た。薄く開けた目で表情を強張らせて近寄る少女を見て、笑った。
なぜ、と伸ばす少女の手が震える。右脇の傷を負ったあたり、破けた布地の縁を血が固めていた。
「触るなよ、毒だ」
脇に受けた刃に塗られていた。傷を負った直後に川へ飛び込んだおかげで薄まったが、その分効き目が回るのに時間がかかったのだろう。体内を蝕まれた騎士は、すでに指を動かす力もないようだった。
「嘘だ」
少女の涙声。いつからだ。ここに腰を下ろした時? 川岸から森へ入った頃にはもう? いや、斬られた瞬間にはわかっていたのではないか?
「悪いな、〝火竜姫様〟」
こんなときでも、騎士は笑みをこぼす。溢れてくる血にむせながら、少女に離れろと促す。瞼からのぞく瞳は、もはや光を宿していなかった。
「生きろよ……マルリル」
消え入るようにつぶやいたのを最後に、騎士は目を閉じた。
「嘘だ」
少女はその場にくずおれた。
視界を焼き尽くすことはできても、毒を解す術は持たない。どこまでも自分は無力なのだ。
打ちひしがれて涙がこぼれるより早く、少女の脳裡に一案が浮かんだ。人伝に聞いた自身の出生秘話。サラマンダーの生き血で死の淵から蘇った魔女──それが本当なら、自分の血にも同様の効果があるかもしれない。
閃くや、騎士の腰から短剣を抜き、指を切った。湧き出てくる血を口に溜める。鼻に抜ける甘い匂いは、確かに騎士から流れるものとは違う。
騎士の顔にそっと手を添える。騎士の血に触れれば自らも毒に侵されるかもしれなかったが、迷いはない。温もりも、穏やかな笑顔も、今までずっとここにあった。もう震えは止まっていた。
この口づけが、海風の吹く丘で、野の花に祝福された契りであったなら。
燃える火に照らされた血塗れの儀式を、天の星だけが見ていた。
04
小枝で顔を弾き、頰に線状の熱が走る。途端に視界が開く。左右に切り分けられた薮が、来た道を戻っていることに気づかせる。
少女は駆けていた。激しく脈打つ心臓の音に責め立てられて、無意識に体が動いた。
水を吸ったローブの重さ、騎士の短剣を握った右手、左手の傷とその痛み。思い出してやっと、少女は自分の輪郭を取り戻した。乱れた呼吸に混じる、血の匂い。
息苦しくても足は止まらなかった。昨夜の戦場には、追っ手がまだ潜んでいるかもしれない。わかっていながら、とにかく進むしかなかった。木の根や石を避けて地面を蹴り、体を前に送る。この速さでは、幼な子の足でも追い抜けるだろう。森を抜け川岸に出る頃には、朝日に目覚めた鳥達が歌い出していた。
確かに、生きて欲しいと望んだ。しかし、一度動かなくなった騎士が呼吸を取り戻した時、少女の足元はぐらついた。
「よかった」
「信じられない」
「もう大丈夫」
「なぜこんなことができる?」
私は、何なのだ──。
次の瞬間にはもう走り出していた。
波打つ川面は少女の顔を映さない。震える両手で水をすくい、顔を洗う。流れ落ちる雫はかすかに甘い香りがする。
折からの風に、森から鳥が飛び立つ。対岸には、黒く焼けた森がどこまでも続いていた。
本作品はカクヨムに移管しました。
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