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イスラエルは、未来永劫変わることが出来ないのだろうか。

多くの人達が、人質となったイスラエル人や米国人の行く末に、または電気や水を止められたパレスチナ人の行く末に気を揉んでいるのだろうが、わたは、それとはまた別な点も杞憂している。イスラエルの未来のことである。

今年の春だった。「こんな光景を見たことがない!」とNY Timesのイスラエル駐在の特派員は興奮を押さえきれずにレポートしていた。イスラエル中の市民によって大きなデモが展開していたのであった。それは建国以来、初めての光景であった。市民の訴えは、ネタニヤフ首相の行き過ぎた暴政に対する抗議であった。

イスラエルには、憲法が存在していない。そのため、三権分立のかたちも機能せず、国家または政府が思いのままに政治を動かせるのだ。その危うい状態が、建国以来、長く続いていたのだ。90年代になり、そうした動きを牽制できるように裁判所が動くようになった。あまりにも行き過ぎた国家の暴走、政府の暴走については、裁判所がノーを突きつけるというかたちで、市民社会を守る役割を担ってきたわけだ。当然ながら、急進派であり極右のネタニヤフにとっては、裁判所は鼻持ちならない存在であり、裁判所の機能を徹底して弱めるために司法改革に動いたのであった。その暴挙に、市民たちが初めてデモというかたちで、建国以来はじめて、政府への抵抗の意思を提示したというわけである。


デモの写真の大きな旗には、"You will never be a dictator"(お前は二度と独裁者になれないだろう)という文言が踊っている。

遂にイスラエルが変わるかもしれない!世界は驚愕し、わたしは強い期待を抱いたのであった。イスラエルが変われば、“イスラエル - パレスチナ問題”の解決にも大きな前進が期待できるであろう。いやイスラエルが変わらなければ、この問題は一切解決不可能なのだ。第三国がどんなに仲裁に入ろうとも。そうした仲裁が一切の効力を示さないこことは、過去の歴史が如実に証明している。

イスラエルの国家や政府が変わるだけでなく、イスラエル人も変わるべきだと考えていた。今回のデモは、彼らの目覚めであり、大きな転機になると期待していた。戦前、流浪の民としてヨーロッパ各地やアメリカから移住してきた時代を知っている世代はもう僅かしかな残っていない。今の世代は、当たり前にようにイスラエルという国家の中で生まれ育ってきた世代である。厳しい戦いを強いられた先人たちの苦悩を知らず、経済的に豊かな世界しか知らない。歴史を知らない世代が体勢を占めるようになったのだ。いままでの歴代のイスラエルの首相とネタニヤフとの大きく違いのひとつは、こうした歴史感の違いであろう。

イスラエルというのは、歴史が浅いだけでなく、極めて人口的な国でもある。地縁というものが全く存在しない、世界でも誠に珍しい人口国家なのだ。国家成立前、その土地に根ざした地縁とも血縁とも無縁の、まったくもって人工的な国家である。ヨーロッパでもアフリカでもアジアでも、このような国家の成立パターンは稀であろう。こうした国家形成と似ている国は、唯一アメリカ合衆国にしか認めることはできないのではないだろうか。そしてこの二国は、その傲慢さという点において極めて類似しているのである。

そんな振る舞いの国家ではあるものの、反面、四方田犬彦の『見ることの塩』を読む前までは、イスラエル人は、しっかりと教育された、行儀の良い人々だと勝手にイメージしていた。しかしこのイスラエル滞在記を読んで、そのイメージはあっけなく瓦解することになったのだ。そこに記されていたのは、わたしのイメージとは全く真逆のイスラエル人の姿ばかりであった。隣人への無遠慮な態度の数々、町のあちこちでの非礼なる態度や素行の悪さが毎日のように繰り返される。その様が細かく描写されていた。

イスラエルは基盤となる地域コミュニティをもたなかった。歴史のなかで培われた社会通念というものを持つことができなかった社会である。歴史に培われた地域コミュニティの不在は、他人に対して興味を持たない、索漠たる人間ばかりを生んでしまうということを意味するのだろうか。

ご存知のかたも多いかもしれないが、イスラエルにはアラブ人も多く住んでいる。国民の20%はアラブ人だ。多くは第三次中東戦争で土地を奪われた人たちだ。ガザに逃げ込まず、または逃げ込めず、そのまま自分たちの土地に居残った人々である。彼らの多くはイスラエル国家の主権を否定しているために市民権をもっていない。生活のあらゆる場所にアラブ人たちはいるが、相応の差別を受ける身分でしかないのである。

その一方で、ユダヤ系のイスライエル人たちは、生まれながらにこうした差別的な社会構造のもとに暮らしている。つまり彼らは、知らず知らずのうちに、差別的思考をごく自然に皮膚感覚として纏(まと)うことになるわけだ。その帰結として、その多くは、敵・味方という単純な二分法的思考に落ち着くことにある。パレスチナ‐イスラエルは、問題があまりにも大きいため、彼らの、敵・味方の二項対立思考は頑強に彼らを放すことがない。

もちろん良識派も存在する。パレスチナ憎しの一辺倒ではなく、より俯瞰に状況を捉え、自国のやりすぎた対応には批判も辞さない人々。しかしそうした知的なイスラエル人は、日本と同様に少数派に過ぎない。

今年の春のデモのなかでイスラエルは、大きく変化しようと、もがいていた。しかし今回のハマスのテロによって、その大きな転機は、永久に失われてしまったかのようだ。

ハマスのテロを防げなかったということで、イスラエル国内では、防御施設やインテリジェンス(諜報活動)の脆弱性に批判が向けられると同時に、15年以上にもわたるネタニヤフのガザへの非情な振る舞いが、しっぺ返しを招いたと、さすがのネタニヤフにも批判の矛先が向いていたのだが、昨日、ハマス殲滅のために、与党と野党は協調し挙国一致政府が樹立してしまった。時計の針は、半世紀も巻き戻されてしまったかのようだ。

取り返しがつかないほどに、イスラエルの転機は雲散霧消してしまった。それはパレスチナの悲劇を招来するばかりか、イスラエル国民にとっても、本当の民主主義国家への転機を失った。現在感情によって彼らに自覚はないだろうが、いずれその悲劇に気がつくときがくるであろう。



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