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【殴り書き映画鑑賞メモ『チーズとうじ虫』ドキュメンタリー】

昨年観たときの映画鑑賞メモ。

また今日も怠惰に時間をすごしてしまい、やらなくてはならない様々な事柄を犠牲にして夕方からの映画に行くべきか悩んだ。しかしパンフレットには、2005年年山形国際ドキュメンタリー映画祭での小川紳介賞と批評家連盟賞をダブル受賞とフランス・ナント三大陸映画祭ドキュメンタリー部門グランプリを書いてあった。そんなにすごい映画なのか。これを見逃すといつになるのかわからないということで思い切って映画館に言ったのだが。

結論。映像表現の難しさを思い知らさえるばかりで満足のいく映画体験には至らなかった。『チーズとウジ虫』という題名は、イタリアの歴史家の書物からとったタイトルである。

母親の闘病と死、娘を先に亡くしてしまった祖母、そしてカメラを回す私の3人の5年間に及び軌跡であり、その途中に子どもが生まれ、その子どもたちが死と直面する姿も描かれる。ホームビデオで撮られた個人的な映像が、このように映画に生まれ変わったということ自体、奇跡である。演出面では、ありがちなナレーションやテロップもない。章立てのような感じでタイトルが途中途中挟まるだけの構成。構成自体は悪くない。極力余分を省くことが必要だと考えるミニマリスト志向のわたしにとっては理想的な構成なのだ。

じゃ、何が不満なのか。簡潔にいえば「驚き」が無いということである。ドキュメンタリーだから作為は必要ない?いやいや響かせるには、「驚き」という感情を生起させることが必要だと思う。先が読めてしまうのだ、あまりにも。せっかくの貴重な映像なのに予定調和に見えてしまう。読み手側、視聴者側に、素材を与えて、解釈を委ねるのは悪くないと思うのだが、やはりフォーカスする部分が何なのか、作者自体が意識的に糸口を見せて上げる必要があるし、その糸口の見せ方も、読み手の想像を超える入射角が必要だと思う。それが「驚き」となり、感動なりの感情を惹起させることにつながっていくのだ。章立てに記される短い言葉もあまり機能しているようには思えなかった。

一方で逆に饒舌すぎる部分もあった。ちょっと厳しすぎるかもしれないが母を偲ぶシーンにおいて、様々な思い出の品を映していくのだが、わたしはそれは2つ、3つに絞るべきではないかと思う。語りすぎれば、観る側の感情を摘み取ってしまう。そういうシーンもいくつかあった。

たまたたま今日私も同じようなミスを犯した。自分のネコの写真をFacebookに掲載した。自分としては珍しくよく撮れた写真だったのに、そこにいらぬキャプションを載せてしまった。「2月末。春の予感と猫」。蛇足である。「春の予感」はまったく必要がない。陽に照り反るアスファルトの光を見れば、見る側が、それを自然と感じ取ることができるのだ。「春の予感」という余計な言葉を入れたがために、せっかく感じようとしている、見る側の感情を先取りしてしまうことになった。「猫」も必要ないだろう。わざわざ写真にネコですという必要があるだろうか。キャプションは、「二月末。」だけで充分であった。

この映画のラストのエンディングにも音楽が入っていたが、それも本当は必要でないと思う。乾けば乾くほどに、見る側は感情を生起されるのだから。「映画は終わりました、この音楽を聞いて感動してください」的な予定調和の音楽は必要ないのだ。さらに最後に「しずく」のようなアニメーションが入っていた。うーん、これも蛇足であるな。残念だな。

わたしのこの映画の不満は、語るべきものがうまく語られていないということがひとつ。もうひとつは前者と全く背反する視点だが、語りすぎていることであった。多分これが文書であれば冷静な推敲によってここのような欠点は克服できるもののように感じるのだが、映像というのは、かくも難しいものだなと感じたわけである。ああ30分の走り書きのつもりが60分を経過している(汗)。

付記。

まったく映画づくりとは無関係なひとりの女性のホームビデオから出来たものだと最初からわかっていれば、わたしもここまで辛口にならなかったかもしれない。

ホームページを見て付言しておかなくてはいけないと思ったことは、この作者は、相当な悲しみや苦しみを抱えながらカメラを廻していたということ。深刻な闘病生活部分は流石にカメラを廻すことが出来なかったようだ。

娘に先に行かれてしまった91歳の祖母の鎮痛な姿が印象的だった。「わたしは死は怖くないよ、自然に眠れるように死ねればいい」と語っていた。


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