相容れないこころ【掌編小説】
喧噪のただなかにぽっかりと黒い口をあけて、地下へと続く階段がそこにあった。
後ろ暗い商売のくせに、ずいぶん明るい大通りを根城にしたものだ。居酒屋とネイルサロンが入っているそのビルの地下には、『心臓屋』がある。私は冷たいコンクリートの壁を手でなぞるように、そっと階段を下りた。
一歩ごとに騒音が遠ざかり、自分のパンプスの足音だけが際立っていく。
看板も表札もないドア。通り抜けてしまえば、後戻りはできない。
ぎちりと不吉な音を立てて閉じたその扉を背に、私は狭い店内へ足を踏み入れた。
薄暗いその空間は、古びたバーのような作りだった。カウンターの向こうに棚がしつらえてあり、様々な色の光を放つガラス瓶が整然と並んでいる。瓶の中に込められた『心臓』が、あるいは優しく、あるいは激しく、こころのかたちを輝かせていた。
棚の前に、エプロンをかけた初老の男が立った。
「何の用かね」
私は何度も心の中で練習した言葉を、無理に絞り出した。
「……『心臓』を売ってください」
男は片眉をあげ、舐めるように私を見る。
「あたらしい『こころ』が入り用な体には見えんがね」
それは確かだった。現に、私の心臓は私の胸にあって、男に聞こえそうなほどの早鐘を打ち続けている。
「昨日、新しい『心臓』を仕入れたんじゃありませんか」
私の声は震えた。
「それがどうしたね」
男は表情を変えない。
抑えきれない涙がついに私の目からあふれた。
「それは、私の……恋人のものだったんです」
男は表情を変えない。
「私の『心臓』を代わりにお売りしますから、彼のを私に返してください」
氷のような静寂の中に、私の嗚咽交じりの声が響いた。
値踏みするように、男は私を見る。
「……あんたの『こころ』なら高値がつくだろうがね。うちじゃ、生きてる者の『こころ』は抜けないよ」
思いがけないほどやさしい声だった。
「いいさ、この『こころ』はあんたに預けよう。あんたが死ぬとき、約束のお代を払ってもらえるならね」
いつの間にカウンターから出てきたものか、男が、ひとつの赤い瓶を持って、目の前にいた。
「……い、いいんですか」
胸の中ではねる私の心臓と同じリズムで、瓶がほのかに光を増す。
いつも穏やかに私に寄り添っていた彼の『心臓』は、鼓動の速さも、私と同じだった。
「この商売は信用が第一でね」
男が瓶のふたを開ける。
瓶の中の彼の『こころ』は、自ら望んだように、私の胸へと転がり出て……すうっと融けるように染み込んだ。
今までよりずっと大きく、心地よく、とくん、と胸が鳴った。
客が出ていくと、男はさっそく準備を始めた。
さきほど空になった瓶のほかに、もう一つ空き瓶を取り出し、ラベルに日付を書き入れる。二つの空き瓶をケースに入れ、店を出た。
階段を上がったところに、女が倒れていた。
「……一つの体に二つの『こころ』で生きられると思ったかね?」
女の体から二つの『心臓』を拾い上げ、手早く瓶に込めると、男は何事もなかったかのように、元の居場所へ戻っていった。
遠く、救急車の音が聞こえていた。