空気質シンドローム【掌編小説】
奈穂子は昔から、欲しがらない女だった。
プレゼントは何がいいか。デートはどこに行きたいか。何が食べたいか。希望を聞いても、明確な答えが出てきたためしがない。「友樹にまかせるわ。あなたの思う通りにしたいの」そう言って柔らかく微笑む。その、謙虚で奥ゆかしい微笑みがどうしようもなく愛しくて、この女しかいないと思ったものだった。
結婚してからは、やりくりの苦しい家計の中から半分を友樹の小遣いに回し、自分は新しい服一つ買わない。趣味も作らず、友人と出かけることもない。黙々とパートや家事をこなし、友樹に尽くし、柔らかくて曖昧な笑みを絶やさない。
友樹は時々、奈穂子の存在を忘れるようになった。同じ部屋にいても、自己主張しない彼女の存在は希薄で、よくあるたとえがこのうえなくぴったりと当てはまる──まるで空気のよう。
このごろの奈穂子は、声の出し方も忘れたみたいに静かだ。
家の中に会話がなくなってどれくらいになるだろう。ふんわりとあたたかな雰囲気だけ残して、奈穂子はその輪郭を徐々に無くしていった。
気づいたのは三年目の結婚記念日。奈穂子を連れ出そう。独身の頃のようにロマンチックなデートを演出してやろう。奈穂子も喜ぶはずだ。
「今日は記念日だろう。いい店を予約したんだ」
夕方になってから言い出したのは、サプライズのつもりだった。
奈穂子は、微笑んで言った。
「じゃあ……着替えてきますから……」
そうして寝室に戻り、一時間しても戻ってこなかった。
さすがにいぶかしんだ友樹が、寝室をのぞいてみると、奈穂子はいなかった。
いや、いないと思ったのは気のせいで、西日にほんのり浮かび上がる霧のような半透明の女がゆっくり振り向いた。
「……ごめんなさい……着ていくものがなくて……」
彼女の足もとには、すっかり黄ばんでしまった、独身時代のワンピースが落ちていた。
友樹は妻をビニール袋で念入りに包み、病院に連れて行った。透明な袋の中で彼女は今にも霧散しそうに揺れていた。
医者は一目見るなり溜息をついた。
「あなた、こんなになるまでどうしてほっといたんです」
「妻は……大丈夫なんでしょうか」
飛ばされて散り散りにならないよう無風室に入れられた奈穂子は、あいかわらず、あの頼りない微笑みを浮かべている。透き通った体はもう、目をこらさなければ形を判別できないほど空気化してしまっている。
「なんとかなるでしょう。お話を聞く限りでは、まだ望みはあります。着ていくものがなくて途方に暮れたということは、途方に暮れることができるくらいには自我が残っていたということですから」
奈穂子に施された医者の処方は、最初、クロスワードパズルだった。
質問と、空白のマス目と、たくさんのカタカナが与えられ、奈穂子は透き通った指で言葉のかけらをつまみ上げてはつないでいた。
やがて、質問はなくなり、奈穂子はマス目の中に自分で選んだ言葉を入れるようになった。
その段階も過ぎると今度はマス目がなくなり、奈穂子は制限のない白い紙の上に言葉を並べ始めた。
もう、微笑んではいなかった。じっと真剣な眼をして紙に向かう奈穂子を、友樹は病室の隅で見守った。
退院の日、奈穂子は黙りこくって病院を出た。友樹が「お世話になりました」と頭を下げる間、奈穂子は微動だにせず、外の光を眺めていた。
「帰りたくないわ」
車に乗せた時、奈穂子がぽつりとつぶやいた。
「そうか」
友樹はエンジンをかけようとした手を止め、奈穂子の横顔を見た。
奈穂子は前を見据えたまま泣いていた。流れ落ちる水は透明だったが、その頬は確かの質感を持ってピンク色に輝いていた。
「買い物に行かないか。欲しいものはあるかい」
聞いた友樹に、奈穂子はかぶりを振ってこたえた。
「わからない」
「そうか」
帰りたくない。帰りたくない。友樹は口の中でなんども噛み砕くように呟いてみた。それは奈穂子の初めての望みだった。できるかぎり完璧な形で叶えてやりたい。
「じゃあ、俺の服を見立ててくれ。俺が、お前の服を見立てるから。買い物が済んだら、そのあとどこに行くか決めよう」
奈穂子がこちらを見る。ほんの少し甘えたようないたずらっぽい声で、彼女は言った。
「いやよ、そんなの」
見たこともない顔でくすっと笑った。