パタリロン

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離婚秒読みのおじさん回顧録day3

腹を割って話す 水曜どうでしょうでお馴染みになったこの言葉にはどこまで本当に割って話しているのか猜疑心が生まれる、もちろん話そうと言い出した方に。だってそうやろ?投げたボールが帰ってくるなんて言葉も『こーいうボール投げて欲しかったんやないんやけどなぁ…』と思うのが人間のはずだ。 嫁ちゃまはもともと口数が多い方ではない。自分どちらかといえば一言多い、すなわちおしゃべりクソヤロウw そんな2人は8割自分残り嫁ちゃまの会話量だ。 リアクションも思ってる程感情もなかなか表に出さない

    • 離婚秒読みのおじさん回顧録day2

      嫁ちゃまは仕事に出かけ自分はというと1日何もする気が起こらなかった。ただただピーピー泣きじゃくっていた。始めて気付いたかもしれない、自分の中で嫁ちゃまの比重がこんなにも大きかったのかと。 もう死のうかと思ったよ。1人になるくらいなら。48才のおじさんがさがさぁ、情けない(笑) 昔からよくふられたよ。気持ちが重いだ彼氏としては何か足りないだとか。 20才の時付き合ってた彼女と結婚の約束をしていた。夢を、はっきりとした形はなかったけど何かになりたくて東京に出たのが19才の夏。絵画

      • 離婚秒読みのおじさん回顧録day1.5

        自営業者、個人事業主は不安定である。だから真面目に就職をしてコツコツやるのが一番。 逝ったオカンがよく言っていた。真面目にコツコツ働きなさいってね。風来坊の根無し草だった自分は結婚を機にフリーのカメラマン(動画)やコピーライターの仕事をやめ派遣だがサラリーが貰える仕事についた。もちろん契約が終われば次の契約で仕事といった感じだがサラリーは安定していた。 嫁ちゃまはカメラマンとしてとあるブライダル事業の会社で働いていた。 違う畑の写真も撮りたいと子供写真館の仕事に転職したのも

        • 離婚秒読みのおじさん回顧録 day1

          嵐は急に自分に襲いかかった。 インフルエンザで寝込んでいた嫁ちゃまが熱も下がり咳も出なくなり現場復帰するしないの話の昨日、突然の話だった。 離婚しようと思う。 人間言われてすぐさま反応出来ないもんだ。『は?』『へ?』と何度も聞き返した。 結婚して19年目を迎えた今年、2人の間に子供はなく夫婦2人、手を取り合ってといっては綺麗すぎるか。生きてきた。嫁ちゃまの夢を、やりたい事を叶える為自分は仕事をやめ援護射撃、いわゆるサポート役として支えてきた。 コロナになって5類になるまで業績

        離婚秒読みのおじさん回顧録day3

          母の日なんかー

          そっか、今日は母の日か。 オカンの命日が4月、去年は母の日にはいなかったんやなぁ。 爆裂親不孝やった自分にとっては母の日は関係のないイベントやった。なんだったら普通に生活費に困ったと金のむしんをしてたな。 母の日をちゃんと意識するよーになったのは結婚してからだ。嫁ちゃまが母の日に何を贈る?と結婚1年目に言われて目を丸くして驚いたのを覚えている。それから毎年欠かさず、カーネーション以外の花を贈ってたっけ。 去年はよく覚えていない、どーしてたのかさえも。 今年は、今年は、カーネー

          母の日なんかー

          転機?

          ひがみっぽくネガティブで社交性0、これが自分を表すにピッタリなのだ。小学校までは明るく社交的で元気印の男の子だった。前にも記述したが受験で私立の中学校に行って空気もソリも合わず内向的な性格になってしまった。 自宅から阪急電車に揺られて1時間、友達も出来ず、時にはいじめられハブられ落ち込まず向こう気の強さだけで学校に行く。目付きは悪くなりよく絡まれどつかれ逃げ回り散々だった。そりゃひねた性格になるよね、もちろん社交性もなくなる全てが敵に見えた。オカンを泣かし怒られ反抗し、だから

          泣く時泣けない時

          泣けない自分が嫌いな時もある。 自分は基本的に涙を流す事が苦手だ。子供の時からオカンべったりママママママママと、小学校4年生までオカンの横で寝ないと眠れない子供だった。思春期から反抗期とママと呼ぶのが恥ずかしくなりいつしかオカンと呼ぶようになった。そんなあまえたの自分は子供の時にぴーぴー泣きすぎたせいか泣くのが苦手になった。 初めての彼女と別れた時、結婚が決まった相手に浮気が分かって別れた時、パチンコでしこたま負けて財布がすっからかんになった時、まー涙が出ない。いや、映画やド

          泣く時泣けない時

          親不孝其の2

          親不孝、親孝行出来ていないってのはこの1年ずーっと心に残っていて毎日が地獄。 で、親不孝といえば嫁ちゃまの両親、義父母にも迷惑のかけどおしだ。ただそりが合わないのも事実煮え湯を飲まされる事も多々ある、それは今でも続いている。 結婚前からその『気配』はあった。結婚しますと報告してから始まった。 まずは釣書、これを出せと言われた。次に興信所を使って私の素性を調べられた。そして結婚式の費用をどちらがいくら出す出さないで圧力をかけられた。結婚して姓を嫁ちゃまのほうにすると烈火の如く怒

          親不孝其の2

          唯一?の孝行?

          オカンが逝ってからのこの1年、毎日が地獄だった。もちろん今もなのかも。 後悔と反省の苦しみにイジワルウイルスのせいで夫婦2人で経営してきた会社はドへこみ、それでも生きていかなければと夫婦2人で支えあって生きている。 これも後悔のその一つ。 うちら夫婦に子供はいない。結婚生活18年、最初は仕事も忙しく子作りに頭が回らなかった。金銭的余裕と次のステージの為嫁ちゃまの独立の夢を叶えようと起業した。最初は仕事もなく頭を下げて色々営業もした。当然子供が欲しい欲求と年齢的にもと思い始めた

          唯一?の孝行?

          親不孝の始まり

          思い返す事がオカンが逝ってから多くなったのと同時に自己嫌悪に陥る毎日が続いている。 小学校の思い出は『最高に楽しい』としか言えない。そんな中、中学受験を余儀なくされた。もちろん逆らう意思もなくただ学校→家→塾のローテーションで6年生は瞬く間に終わった。 エスカレーター式で大学が付いた中学に合格した。自分で言うのもなんだが関西では超有名高だ。今思えばよく入れたもんだ。 親孝行というものは恐らくこれが最後だった。優秀学校に入ったあるある、兵庫県の田舎の子が大阪の優秀学校に入る。当

          親不孝の始まり

          気付かなかった色々

          おかんがどんな人やったんかは正直あまり知らない。 昭和11年生まれ、真面目で料理上手で英語が堪能の❌2。もちろん姉と兄とは種違い(何がもちろんかは不明) ここ数年腰のケガから介護が必要になり姉が面倒をみていた。元々姉とはソリの合わない自分、余計おかんには会いたいが姉とはなーなんて思いほとんど会わなくなった。 姉と兄から葬儀や四十九日などで聞く最近のおかんは自分の知らないおかんだった。 刺身が好きだった事。 飲むビールの種類が変わった事。 英語を話さなくなった事。 生前は迷惑の

          気付かなかった色々

          おかん、逝くなよ

          86才のおかんが亡くなったのは2022年4月18日の朝だった。眠るようにデイサービス先で息をひきとったそうだ。姉から連絡があり電話、メールを爆睡していた自分は気付かず嫁ちゃんも爆睡。連絡から一時間ほどでムクッと嫁ちゃんが起きて気付いた。 おかんとはしばらく会ってなかった。実家の階段で足をいわしてから入院、退院とその後は独り暮らしの姉が面倒を見ていた。コロナ渦の前に姉の自宅ですき焼きをつついたのが最後やった。声も昨年の誕生日に電話で話しただけやった。おぼろげなおかんの声と顔、仮

          おかん、逝くなよ