ぼくらがスタートアップにこだわる理由
2017年にシニフィアンという会社を共同創業者の3名で立ち上げてから、2年半ほどが経ちました。以来、Pre-IPO/Post-IPOといった区別なく、一貫してスタートアップに携わる仕事に取り組んでいます。私たちの会社にとっては、新たに「THE FUND」というグロースファンドを立ち上げたという点で、2019年は大きな意味を持つ1年でした。
そんな中、たまたま先日、最初のスタートアップで共に働いた旧友と再会したこともあり、年の瀬の今、改めてなぜ自分はスタートアップに携わっているのかを言語化したいと思いました。単に過去からの惰性なのか、たまたま追い風のトレンドだからなのか、それ以外に理由があるのか。
果たして10年後に読み返した時、どう感じるのか。大して認識は変わっていないのかもしれませんし、全く別の考えを持っているのかもしれません。そんな先のことにちょっと思いを馳せつつ、2019年末時点における「ぼくらがスタートアップにこだわる理由」をスナップショットで切り取って、ここに書き残しておきたいと思います。
世の中にある3つのタイプの仕事
私がスタートアップ(当時は「ベンチャー企業」という呼称)という存在を認識したのは、大学在学中のことだったと思います。10代半ばで競馬の騎手を目指して単身渡豪し、体重制限と交通事故で挫折した私にとって、起業家という生き方には、自身の技能や才覚で食っていくという騎手と共通のものを感じ、非常に興味を掻き立てられました。楽天やライブドアといった新興企業が台風の目となった「プロ野球再編問題」が喧しかった頃の話です。
在学中は教育事業(「EdTech」という言葉はない)を営むベンチャー企業に創業スタッフとして関わったり、友人とSNSの企画やソーシャルグラフを活用した実験を行ったりといった「起業ごっこ」に勤しみました。熱量高く、それなりに真剣ではありましたが、最近の学生起業家のような本格的なビジネスの立ち上げと言うよりは、あくまで「ごっこ」の範疇を超えない活動であったように思います。
大学を卒業した後、学生時代の「起業ごっこ」から離れた私は、マッキンゼーという経営コンサルティングファームに入社しました。ここでは本当に多くの学びを得ましたが、数年間、経営コンサルタントの丁稚として仕事に従事する中で感じたのは、世の中には大まかに分けて3つのタイプの仕事があるということです。
1つは、大きい富のパイを守り抜く仕事。既に存在している大きな富の源泉を、いかにして減らないように守り抜くか。専守防衛のような側面のある仕事です。
おそらく「大企業」と呼ばれる会社で関わる仕事の多くは、このタイプの仕事に当たるものが中心でしょう。もちろん、大企業であっても、新たな富を生み出すための取り組みが多々あることは承知していますが、メインの仕事はやはり、既にある富のパイをいかに保つか、富を創出する仕組みや構造をいかにして維持するかなのだと思います。
2つ目は、今はまだ世の中にない富のパイを創り出す仕事。もしくは、今はまだ非常に小さい富のパイを、将来に向けてより大きく育てていく、0から1を生み出していくタイプの仕事です。スタートアップが関わるのは、端的にこのタイプの仕事であるはずです。
そして3つ目は、既にある富のパイを切り分けて、世の中に配っていく仕事。これはいわゆる官界の方をはじめとした、パブリックセクターが携わる仕事のことです。直接的に富を生み出すのではなく、日々生み出される富を、どうやって社会に最適配分するかを考え、実行する類の仕事です。
随分と乱暴な区分ではありますが、当時はざっくりとこうした区分で世の中を捉えたのだから、仕方ありません。
もちろん、この3つのタイプの仕事に貴賤や優劣の関係はありません。どの種類の仕事を選ぶかは、多分に好みの問題で決めるべきものでしょう。ただ、これらの3つのタイプの仕事は相応に異なるものであり、自身の好みや適性と仕事のタイプが一致しないと、愉快に働くのは少々難しいかもしれない。社会人生活を経るにつれて、当時の自分はそう考えるようになりました。
当時、多少の社会人経験を経て我が身を振り返ると、1つ目のパイを守り抜くという仕事はどうやら自分の性分には合わなそうだということがわかってきました。
その一方で、3つ目のパイを切り分ける仕事も、どうもしっくりきません。非常に大事な仕事だとは思うものの、縮みゆく日本の富のパイを切り分けることよりも、いかにして富のパイをより大きくすることができるかに頭をひねり、自分の人生を捧げたい。そのように思ったのです。
リーマンショックと「ベンチャー企業」
こうした考えに至ったのには、当時の時代背景も大きく影響していたように思います。私が大学を卒業して社会に出たのが2007年。翌年にはリーマンショックが起こりました。
自分が属する組織での人の出入りや、プロジェクトの案件数を通じて、如実に不景気の風当たりを体感しました。また、大企業を中心としたコスト削減等のプロジェクトの性質を鑑みる内に、どうやら人には向き不向きというものがあるらしいと勘づいたように思います。
そんな時代の影響と、「新しいパイを生み出すことに関わりたい」という初期衝動のような思いも相俟って、2010年、私は学生時代に友人たちと立ち上げに携わったネイキッドテクノロジーという会社に復帰しました。
2019年の今でこそ、多くの人たちがスタートアップに注目するようになりましたが、当時、マッキンゼーの同期でスタートアップ経営に転身したのは私を含めて2人だけでした。そもそも「スタートアップ」という呼称がまだ市民権を得ておらず、「ベンチャー企業」という名前が一般だった時代。 2018年には4,000億円を超えたと報じられる日本国内のベンチャー投資の総額が、まだ700億円にも満たなかった頃の話です。
では当時の自分に先見の明があったのかというと、そういうわけでもありません。結果はともあれ、リーマンショック直後のマーケットが干上がっているタイミングにスタートアップの世界に飛び込むということは、今思うとあまり賢明な判断ではなかったかもしれません。
当初、ネイキッドテクノロジーに復帰する直前には、アメリカのビジネススクールへの留学を予定していました。外資系のプロフェッショナルファームで働く上で、ビジネススクールは「義務教育」的な側面がありますが、同時に海外のビジネススクールには、多かれ少なかれ「転職予備校」という性質があります。打算的に考えれば、いわば「キャリア・ロンダリング」を行う絶好の機会です。この点をよくよく考えてみると、大してキャリアも汚れていない人間の選択肢として、ビジネススクールへの留学は少々もったいないカードでもあります。
「もしもスタートアップが破綻してしまったら、その時にはそのエピソードを入試のエッセイに書いて再受験すればいいか」という軽いノリと、「まぁどうにかなるだろう」という取り立てて根拠のない楽観さでスタートアップの世界に飛び込んだというのが正直なところです。留学先で学びたいこともスタートアップに関することだったので、学ぶよりはやってしまった方が手っ取り早いという思いもあったのでしょう。
また2019年の現時点と比べて、人材市場で全く注目を集めていなかった頃のスタートアップに携わる面々を見るに、プロフェッショナルファームに比べると、明らかに人材の層の厚みの違いを感じました。「勝ち易きに勝つ」は、スタートアップの経営であれ、個人の処世術であれ、どちらにも共通する基本原理です。
以来、未上場のスタートアップ、並びに「Post-IPOスタートアップ」と私が呼ぶ、新興上場企業に関わってきました。どちらかと言えば、思ったとおりにいかなかったこと、自分の稚拙さを痛感したこと、ロクでもない苦しい思い出の方が多いのですが、それでも、2010年当時の選択は間違っていなかったと、今では思います。
また同時に、一貫してスタートアップは社会において積極的な存在意義、重要な役割を担っているという認識も抱えています。
スタートアップの社会における存在意義
なぜスタートアップに存在意義があるのか。それは、スタートアップとは富を生み出すエンジンであり、時代の変遷に応じて、世の中に出現する社会的な課題に対し、ビジネスというインセンティブ構造を通じて迅速に対応ができる存在であるからだと、私は思っています。
もちろん、大企業も自社のアセットを通じて、様々な社会課題により大きな規模で対応し得る存在ではあります。ただ、既に出来上がった「持つ者」であるが故のしがらみや、現状維持に向かう慣性が働くからこそ、新たに出現する課題に対して、なかなか迅速に働きかけられないことがほとんどなのではないでしょうか。
スタートアップは、「持たざる者」であるからこそ、世の中に生じる新しい課題に対して、何のしがらみもなく、フットワーク軽く、自由に様々なソリューションを提供することができる存在です。この点で「持たざる者」であることは、スタートアップ固有の強みであるはずです。
またスタートアップは、様々な社会課題を解決するような事業を構築することを通じて、将来世代に引き継ぐ大きい産業を創りうる存在でもあるはずです。これこそが、スタートアップが社会に存在することを正当化する最大の理由なのではないでしょうか。
スタートアップに携わる個々人のレベルでは、単純に取り組んでいる内容に楽しさ、喜びを見出してサービスの提供やプロダクトを開発している人も多いことでしょう。また同時に、キャピタルゲインといった経済的なインセンティブや名声欲に駆られて事業に向き合う人も多いはずです。個々人のアニマルスピリットに火をつけないことには、起業に取り組む人など出てきません。
どんな動機であれ、それがルールや社会通念に則っている限りにおいて、世の中に新たな富を生み出そうという取り組みは歓迎すべきだと私は思います。
一方で、より引いた観点から、社会全体におけるスタートアップの役割を考えると、それはやはり、世の中に対して正のインパクトを残していくことだと思うのです。
未来世代のために現役世代ができること
話は変わりますが、小学生の頃、私はボーイスカウトに所属していたことがあります。ボーイスカウトでは、野山に分け入り、ときにモールス信号や手旗信号、ロープ結びといった、今思うと何の役に立つのかよく分からない技能を習得しながら、自然体験を重ねます。そうしたボーイスカウトでの活動を通じて強く印象に残っているのは、「来た時よりも、その場を美しくして帰る」という訓えです。
ボーイスカウトの活動で利用するキャンプ場などの施設に感謝の気持ちを込め、立ち去るときには清掃を行い、来た時よりもより綺麗な環境を残していこうという指導内容ですが、私の所属していたボーイスカウトの責任者が事あるごとにこのフレーズを繰り返していたため、今になっても妙に脳裏にこびりついて離れません。
翻って自分がスタートアップに関わる理由を考えると、この「来た時よりも、その場を美しくして帰る」という精神が根深く紐付いているように思います。
気がつけば、リーマンショック当時は20代半ばだった自分も、30代の後半に入りました。「人生100年時代」をどう捉えるかはその人次第ですが、旧来的な社会人のキャリアであれば、そろそろ折り返し地点を迎えつつある年代です。
こうして歳を重ねていくにつれて、将来の世代は富のパイを享受することができるのか、健やかに過ごすことができるのかといった、10年前であれば決して考えなかったような懸念が、どうしても頭をよぎるのです。自分たちの子どもや孫の代にあたる人々に対して、果たして自分は誠実に振る舞えているのだろうか、と。せめて恥ずかしいものを残してはいけないという、ささやかな責任感が湧いてくるのです。
騎手の挫折、はたまたリーマンショックという社会人早々の原体験もあってか、私はどちらかと言うと悲観的な性分です。特に自分が住む日本という地には愛着を持っていても、残念ながらなかなか明るい展望を描くことができません。
ただその一方で、不満に思うことは多々あれども、それでも過去の時代に比べれば、今を生きる私たちの世代は相対的に随分と豊かな生活を享受しているのだとも感じています。できることなら、将来を生きる世代にも、豊かな生活を享受して欲しいですし、そうした社会を出来させるために、現役世代としては最大限ジタバタしないと顔向けできないという思いを強く持っています。
この点、先に述べたとおり、スタートアップは世の中に対して正のインパクトを残すことができる存在のはずです。将来世代に向けて新しい産業を生み出し、引き継ぐことができる、そんな可能性を持った存在のはずです。
大企業に比べれば、今この時点でのスタートアップの影響力は微々たるものでしょう。エスタブリッシュメントの世界から見れば、随分と小さな商売であったり、浮ついた軽薄な取り組みであったりに見えるのかもしれません。
それでも、未来に向かって新しい富のパイを創出し得る存在であること、「来た時よりも、その場を美しくして帰る」ために必要な機能であり得るからこそ、ぼくらにはスタートアップにこだわる理由があるのだと、私は思うのです。