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話すと口からこぼれ落ちてしまう感覚があり,急にとてつもなく怖くなったので,文章に書き起こしておこうと思った.
すべての感覚器官が閉ざされたような感覚がずっと続いており,脳の接続回路が封鎖し電気が脳内をずっと溜まり続けているような状態.かつての意気揚々としていた自分は,本当に遠い昔のように思える.本当に自分なんだろうか.
傷つかないように感情を外に放り出すことに成功した結果,戻らなくなってしまい,自分の意識と身体の接続部を探し当てることはできなくなっており,すべての出来事が身体から通り抜けていく.現実に起こっていることを俯瞰して見ている(といえば聞こえはいいが,他人事のように見ていて,この身体で行われている生存行動の全てがどうにでもなれと思ってしまっている.良く言えばなるようになるだし,悪く言えば何も感じない)ので,人が死ぬことも「人はいずれいつか死ぬ」ということにそうだよなと納得し,全てを受け入れているように思う.悪意に関しても離れた身体が受けているだけなので,特に問題はないような.
それの弊害なのかはわからないけれど,集中力がない.いや,もともとなかったような気もするが.けれど頭で考えるということが苦手になってきていて,より感覚で生きてしまっている.以前と変わっているから不安だ.頭で考えられなくなっているのは,かつてついた傷が,笑っているが,未だに流せていないからなのかもしれない.焦りを感じてしまっていて,それからも逃げているような気がするし,全てを諦めているような気もする.諦念という言葉はずっとしっくり来ている.
「どうあがいても,今の自分以外ない」のだから,ここにあることがすべてで,それ以外はない.だからこそ今ここに存在していることだけが真実で,それ以外はすべて嘘.ただ一度だけの人生なのだから,可能な限り経験したい.これはある種の知的欲求である.
他の人にも人生がある,というあたり前のことを常に忘れてしまうし,灯りが灯るマンションの一つ一つに生活がある,ということを現実で思い起こすことは少ない.自分以外にも生活がある.が,その人たちのことを思えるほどの余裕なんてないように思う.皆精一杯に生きている.
優しいだけの人間は居なくて,使い分けの問題だ.理想と現実(自分自身の本質)とのギャップに常に苦しんでいる.それは他の誰かに対するものでもあるだろうし,自分自身に対してもある.
音楽をして,歌を歌っているときだけ,声を張り上げているときだけは自分が自分に戻った感覚になっている.でも歌が好きなのかはわからない.高校生のときのカラオケは楽しんでいたな.なぜか最近はハモリがうまくいかなくなっていて,これも何かしらの影響なのかなとかまで思い悩んでいる.
ずっと悲しみ続けることは楽で,悲しみは継続するけれど,所詮記憶なので,その記憶は時間とともに想像していたものよりもずっと歪なものになっていることもよくある.自分の記憶が本当に正しいかどうかなんてわからない.記憶は簡単に歪められる.
物事は様々な物がまとわりついており,シンプルではあるが,そのシンプルさを見つけるまでにとても苦労する.解決の方法は簡単なのかもしれないが,同時に難解で手に負えないものだったりもする.自分が見つけた解決策が必ずしも正解ではないということを忘れてはいけない.
生きる目的は無い.人生は死ぬまでの暇つぶしとはよく言ったものだと思う.それでも俗世から離れる勇気はないから自分は俗物である.俗物である自覚があるから多少はマシなのかもしれないと自分を納得させている.
見えたものが全てと思っていたけれど,本当はその人にとっては「感じたこと」が全てで,だからこそ人は分かり合えない.事実と真実は異なり,この世には真実しかなく,真実は人の数だけあるのだから.自分という存在を客観視すると他の生物たちと同じであり,特別なことはない.生きたいように生きれば良いと思う.でもこの考えは人間であることに対しての諦めであり,また同時に宇宙規模で見れば正しくもあり,正しさは視点によるものなんだなと気付いた.
小さな諦めの繰り返しが今に繋がっており,諦めることでうまくいくという,良くない成功体験が良くない行動を引き起こしてしまっているように思う.本当は何も諦めたくなかった.諦めることが大人になることだと勘違いしてしまっていた.その度に心が死んでいった.心の残量が目減りするのを直視しても,変わることができなかった.とても悲しいなと思う.
誰かを信じることでしか得られない幸福があったとして,その幸福は簡単に奪われてしまう.なぜなら,信じるという行為は一方的で制御できないのだから.そして,信じるというのはその人のある一面だけを見て行われる行為であり,真実以外の部分が真実として出てきた時に裏切られたという感情が表出する.自分自身は全ての面を出していたと思っていても,相手は相手が見たい部分しか見ていないことはよくあり,そのギャップが埋まることはない.
色々な話を聞きたい.色々な経験をしたい.ありとあらゆる経験をして,世の中の全体を知りたい.自分が生きているこの世界はまだ楽しいことが眠っていると希望を持ちたい.そのために藻掻いている.
人を殺しては良くないから殺していないだけ.自分を殺す意味がないから殺していないだけ.だから,不用意に後ろから刺して殺されたとしても,その人を恨むことはきっと無いだろう.それが僕の人生の終着点だったというだけなのだから.(ただ,死ぬならドラマチックに死にたいという願望だけは昔からある.)
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