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”無責任社会”がひきこもりを助長する

先日、あるネットの記事を見た。

【家族の貧困】「引きこもりの子がいる家庭がなんとなくわかる…」50歳ニートの息子と78歳母親の、嘘と孤独の2人暮らし~その2~

記事を見ればわかるが、親の話しか書いていない。でも、ひきこもりの当事者にこそ話を聞くべきではないだろうか。当事者に話を聞けていないのに、親の側からの視点だけで記事が構成されることに違和感を覚える。

そもそも、ひきこもり当事者に話を聞く”覚悟”が今の社会にあるだろうか?

昔、親に「これからどうするの?」と聞かれることがあった。聞きたい気持ちはわからなくもない。でも答えたところで、実現する見込みもないのなら話す意味自体がない。

もし「一生ひきこもりでいたい」と言ったらどうするのか?一生ひきこもれる環境を用意するのだろうか?するとすれば誰がががどのようにするのだろうか?普通の家庭には金銭的に無理だから社会制度として作るしかない。

もし「ひきこもってるのもつらいし生きているのもつらいから死にたい」って言ったらどうするのか?楽に死ねる環境を用意してくれるのだろうか?本気で救うなら、希望者への安楽死制度を作るしかない。

今の日本社会にはひきこもりの声を聴いたところで何もできないではないか。だから聞くこと自体をしようとせず、放置しているのではないか。何年も前から「8050問題」と聞くが、その解決策が提示されているわけでもない。問題があるとわかっているのなら、具体的な解決策が出されてしかるべきだが、何もないのは社会の怠惰ではないだろうか。

実際問題、日本はひきこもり状態から抜け出すこと自体が難しい社会だ。自分は就職する気があるが、現実的には非常に難しい。長期間無職の状態で出来る仕事は限られている。働ける時間も短い。その上で、ひきこもっていたことに理解のある職場を探さなければならない。個人では不可能。自分の場合、そういう支援をしてくれるサポステには放置され、もうどうにもならない。

仮に働けるとしても、短時間の労働では給与は当然少ない。今の”普通”は週40時間労働だが、それが長いと感じる人もいるだろう。でも長いと感じる人への配慮があるわけでもない。少ない給与では自立もできないし、がんばろうとする意欲自体が生まれにくい。労働を義務として課すことは簡単だが、それで人の心が動くわけではない。

がんばってもどうにもならない社会で何をどう頑張れと?

普通に生きることをあきらめる人がいる社会は異常だと気づいてほしい。


以下のような記事を見つけたので、一部を引用する。

現在、日本では60万人以上の中高年引きこもりが確認され、若年層を含めると100万人から200万人規模に達すると推計されています。この状況に対して、「根絶」を目指す意見もありますが、それは危険な全体主義的発想につながりかねません。



むしろ必要なのは、引きこもりという選択肢も含めた多様性を認める寛容な社会の構築です。これは放置を意味するのではなく、可能な限りの自立支援と、包括的な社会保障制度の整備を進めながら、一人一人の存在を認め合う社会を目指すということです。

https://note.com/mrmonaka/n/nceda0311926e

多様性の中に「ひきこもり」を受け入れられるかどうか。そういった”覚悟”が日本社会に求められているのではないか。いつまでたっても”覚悟”せず、自己責任、家族問題に矮小化しているのでないか。個人に”自己責任”を問うのであれば、国家の”社会責任”も問われるべきである。その責任から逃げまわって何もしていないのではないか。「8050問題」が解決を見ないのは、まさに無責任社会の結果ではないか。

ひきこもり当事者の個人の問題を一つ一つ解決していくよりも、ひきこもり当事者からの声を聴き、社会環境を改善すれば一度に多くの人を救える。

ひきこもりに一歩を踏み出す勇気を求める前に、ひきこもりが安心して生きられるような環境整備が社会に求められている。


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とまとま@生きたくないニートひきこもり
サポステとの闘いで郵送代など色々かかっています。親にはサポステに行っていることを内緒にしているため支援もなく苦しいです。少しで良いのでご支援していただけると嬉しいです。