『多様性』という言葉の気持ち悪さ
ここ数年で『多様性』という言葉を耳にすることが多くなったように思う。
例えば「ダイバーシティ」「LGBTQ」「ジェンダー」などの『多様性』に連なるワードが、新聞やニュース記事に取り上げられない日はないくらいに。
この『多様性』という言葉の多くが、人の2つの側面
①性別・国籍・年齢などの『属性』
②趣味嗜好や価値観などの『思考』
だけを対象にしているように感じる。
この時点で、すでに言いたいことは山ほどあるのだけれど。
僕が我を失うほど、頭に血が上り、さらには虫唾まで走るのが
「多様性を受け入れよう」
「多様性の理解を広めよう」
「多様性について共に考えよう」
という押しつけがましい言葉が付属することである。
気持ち悪くて、書いている今でも吐き気がするくらいだ。
なぜならば、僕にとって『多様性』はただの『前提』であって、
議論の的になる必要のないものだからだ。
例えば、
ある起業が「LGBTQの雇用を今後一切しない」と宣言したとする。
このニュースが日本で放送された場合、おそらく取り上げられ方は
「性的マイノリティへの迫害」や「LGBTQへの人権侵害」だろう。
そして、得意げな顔をしたコメンテーターや有識者が正義面して企業を攻撃する。多様性への理解がないことを問題に。
そして、抗議の電話やクレーム、果てはその企業の社長への個人攻撃、
いやがらせまで発展する。
結果。その企業は倒産、借金まみれになった社長は自殺。
彼の死後、遺書から宣言の理由が明らかになる。
宣言の直前に行われた、株主総会で株主達の強い意見により性的マイノリティの雇用禁止が決まってしまう。
株式会社として従わなければならない社長は宣言を出すに至った。
この事実が世に出たとき、ニュースは逆転する。
「誰が彼を自殺まで追い込んだのか」
「なぜこのような悲劇が起こったのか」
そして、得意げな顔をしたコメンテーターや有識者が正義面して扇動されやすい世論を攻撃する。多様的な考え方ができないことを問題に。
この例は極端に思われるかもしれない。
しかし。少なからず、ねじ曲がった正義の上で語られる『多様性』を目にしたことがある人は多いのではないだろうか。
ここで勇気ある発言をしたいと思う。
このNOTEをみて共感してもらえた方は今後
『多様性』が問題の主点になっているときは、「へー」で終わらせよう。
世界に人間という種が70億もいるのに、同じ個体はいない。
『属性』や『思考』で区切るから、それについては同じ派が発生してしまい、ねじれた正義が蔓延ってしまう。
そもそも、違うことなんて当たり前。
その前提が認識できれば、
議論は更に上の次元「それでもいいかって思えるかどうか」へ昇華される。
僕はこれまでの人生で出会った人たちの『多様性』を見てきた。
そして、現在も繋がりのある人は、
「それでもいいか、この人とは繋がっていたいから」って思えた人たちだ。
逆に「いいか」って思えなかった人とは当然、疎遠になっている。
つまり、
受け入れるべきは、違うことなんて当たり前という事実で。
理解すべきは、その事実は前提でしかなく、議論の余地はないという現実で。
考えるべきは、その現実にそれぞれがどう対処するかという方法だ。
そうやって考えてもらえると日本での『多様性』の語り口がいかにおかしいかわかっていただけるのではないだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?