(独白)「長生き願望=健全」という呪縛を解きほぐす(否定ではない)
否定するのではない。「解きほぐす」のだ。
再考するのだ。
別に逆張り発言ではない。
「寿命が長い=幸せ」と、
いかなる場合でも言えるか?
ということだ。
健康寿命の追求?
それもちょっと違う。
いくら健康長寿であったとしても
誰にも何も価値をもたらさない人生は虚しい。
歳を取るほど
誰かしらに迷惑をかけていく度合いは増す。
「生きながらえてまで
今日、今、自分は、
価値的な存在でいるか?」
そう問いかけ続ける、一生でありたい。
人は
自己以外の誰かに尽くさないと
生きる意味を感じられない。
人に責められる前に
まず自分が人生に飽きてしまう。
そう、自己以外の誰でもいいのだ。
例えネコ1匹だって。
「自分がいるからこそ、その相手の今がある」
そんな「誰か」がいれば。「何か」があれば。
みずからの生きる価値を、おのずと自覚できる。
もしも
それが何も見当たらないのなら。
今から、探せ。
今日から、探せ。
今日見つからなかったら、明日も探せ。
見つかるまで探し続けよ。
されば、見つからなかった今日1日も
価値ある1日と積み上がる。
「生きる」ことを投げ出すのは、いつでもできる。
その前に
まずは今日1日でも
誰かに尽くせる、尽くしているといえる
自分の存在意義を、発掘すべきだ。
「過去に生きる人間は、老人である」
老人とは、年齢の問題ではない。
心のベクトルの向きだ。
例え今日1日でも
「未来に生きる人間」は
肉体は何百歳だろうと
心は青年だ。
それを一生続けられれば
終生、青年だ。
私は、最後まで、そう生きたい。
いつ、その最後が訪れようとも。
2024.8.20