
ミニマリズムは、一面、生活水準を下げること。信念を貫くのは戦いでもある。(独白)
私は、自分がミニマリストであると自負している。
それが自分らしさの一部であり、その価値観に、深く共感している人間である。
しかし、だ。
他人との交流が、義務的に求められる場面がある。
長い人生の中では、いやおうなしに、ある。
そんな時、ミニマリズムである自分のやり方が、非難される時もある。
時に、面と向かって否定されたりもする。
自分の身なりを、貧しいと蔑む視線もあろう。
恥さらしだと非難する人間もあろう。
「なんだその服は」「なんだその靴は」と。
自分の人格を根底的に、否定されるような気持ちすら、覚える。
もちろん、いう相手は相手なりの価値観があろうし、それを持つこと自体は個人の権利である。
ただし。
他人の価値観と同じように染まれと求められても、どうしたってできない。
信じられないかもしれないが。
そういう無理難題を押し付けてくる人間というのが、現実にいたりするのだ。
もし、自分に合わない価値観を求められる人間関係ならば。
できる限り早期に、解消する。
法的手段を使ってもだ。
さもなくば、自分が自分らしく生きる権利や自由が、侵害されるからだ。
ただ一方でだ。
ミニマリズムは、ある一面、「生活水準を下げること」かもしれない。
そんな現実を突きつけられた、という面もある。
ある意味の、反省もある。
例えば、靴だ。
私の足のサイズと形状は極めて特殊だ。
フォーマルなものを仕立てると言ったら、数万単位の支出となる。
しかし、たった1度の使用のために、買わねばならぬ時もあるだろう。
1度使ったら、即刻、捨てる。
なぜか。
置き場所がないからだ。
そして、使わないものを置く事自体、生活が不便、不快となるからだ。
それを否定するならば、私の日々の生活、果ては、人生そのものの全否定となる。
ただ、こうしている自分を俯瞰するならば。
なるほど見方によっては、私は、「貧民」だ。
貧しさという現実に、ただ、しなやかに応じているだけなのだ。
だから。
人によっちゃぁ、私の生き方をこれからも非難するだろう。
否定しに、場合によっては、人権すら蹂躙しにかかるだろう。
でも、自分には、これしかない。
ミニマリズムであり、ぼっちズム。
これが、自分の幸せな道だと、心の底から、感じている。
その自分という一人間に。
受け入れられない価値観を押し付けられ、強制されることは、
人生そのものが暗闇に押し込まれ、囚われの身になるようなものだ。
だから、自分が、それらの強圧から自分を防御していかねばならない。
その上で、場合によっては、反撃することだってあるかもしれない。
自衛だ。自己防御だ。
ここから先は、静かな戦い、沈黙の戦いだ。
自らの信念をどこまで貫けるか、という戦いである。
自分が心の底から求める価値観に立つのならば、非難の荒波も凌げよう。
私には、私が私らしく、生きる権利がある。
知恵を駆使してでも。
法的手段を学び、発動させてでも。
時代の変化に適応するとは、現実には、そういうことだ。
もう戦いは、始まっている。
2024.12.1
いいなと思ったら応援しよう!
