レッジョ・エミリアが描く子ども像
レッジョ・エミリアの実践において、子どもはどのような存在として捉えられているのでしょうか。それは、「子どもは有能である」という一言に集約されます。しかし、この「有能」という言葉は、単に「できる」ということを意味するのではありません。
レッジョ・エミリアの子ども観は、次の3つの視点から子どもを捉えています。
「好奇心に満ちた研究者」
まず、レッジョ・エミリアが描く子どもは、「好奇心に満ちた研究者」です。生まれた時から、子どもたちは世界を理解しようとする強い意志を持っています。それは、光や影に手を伸ばす0歳児の姿に、素材の感触を確かめようとする1歳児の指先に、そして同じ現象を何度も試そうとする2歳児の眼差しの中に見ることができます。
「100の言葉を持つ存在」
次に、「100の言葉を持つ存在」としての子どもです。レッジョ・エミリアでは、子どもたちの表現方法は無限にあると考えます。声や表情、身振り、描画、造形、そして時に沈黙さえも、子どもたちの大切な「言葉」なのです。 例えば、絵の具を見つめる静かな時間も、木の実を何度も落とす行為も、砂の感触を全身で味わう瞬間も、全ては子どもたちなりの「言葉」として受け止めることができます。「関係性の中で育つ存在」
そして「関係性の中で育つ存在」としての子どもです。子どもたちは、モノや環境との対話だけでなく、友だちや保育者、そして地域の人々との関わりの中で育っていきます。1歳児が友達の行為に興味を示し、真似てみようとする姿。2歳児が互いの発見を共有しようとする瞬間。そこには、すでに豊かな関係性の芽生えを見ることができます。
このように、レッジョ・エミリアが描く子ども像は、単に「できる・できない」という視点を超えています。それは、一人一人が持つ可能性を信じ、その子らしい表現を受け止め、関係性の中で育つ存在として子どもを捉える視点なのです。
私たちは、このような子ども観に深く共感しています。そして、日々の保育の中で、子どもたちの小さな「研究」に寄り添い、多様な「言葉」に耳を傾け、豊かな「関係性」を育んでいきたいと考えています。 子どもを「有能な存在」として捉えること。それは、私たち保育者にも新たな視点と発見をもたらしてくれます。
次回は、「環境が語りかけるもの 〜レッジョ・エミリアが考える「第三の教師」〜」について、レッジョ・エミリアの考え方とその実践についてお伝えします。
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