学びの記録1週目『特権と差別(1)』

自分自身、日本に住む日本人、シス男性、40代、演出家、フェスティバルディレクター、以外にも多くの特権を持っていて、今の自分に足りていない部分や、自分がしてしまうかもしれない差別やハラスメントのことを考えても、この「特権」について意識を変えていく必要性を強く感じ、まずはここから学び始めることにしました。

今回はキム・ジヘさんの『差別はたいてい悪意のない人がする-見えない排除に気づくための10章』を通して、今回は主に第1部(1〜3章)から、特権と差別についての気づきや学んだことについて書こうと思います。


悪意なき差別主義者

まずプロローグから、差別の構造として、

「多くの人は差別は悪いことであり、不道徳なことで、してはいけないことだと認識している。」
「そして自分自身を差別などは行わない善良な市民だと思っている。」

という前提が書かれています。

これはハラスメントにおいても全く同じ構造で、ハラスメント以外でも全ての加害者が自分の言い分を信じている、という理解が加害を起こさないためにも重要なことだと改めて思います。

そして差別を差別として認識できない「悪意なき差別主義者」という言葉も、ハラスメントをハラスメントとして認識できない「悪意なきハラスメント主義者」と置き換えられます。

自分は絶対に差別などしないという感覚が本当に危ういことを改めて強く意識しないといけません。

自身を振り返っても「自分はそういうつもりではなかった」という感覚は、ほとんどの場合間違っていますし、後述しますが不平等な社会では社会秩序に従うだけで差別に加担してしまうという意識が必要なのだと思います。

1章ではマイノリティのためにマジョリティが逆差別されているという「マジョリティ差別論」を通じて、まさにマジョリティ特権について書かれています。BLMでも黒人以外の命は大事じゃないのかという主張や、日本でも女性専用車をめぐり男性への逆差別だと主張をする方もいますが、それもここで書かれている、「マイノリティはもはや差別されていない」という、現状とズレた前提で語られていることがわかります。

完全に男女平等な社会が実現されて初めて男性専用車両も無いと不平等だという主張が成立するのであって、現在の明らかに女性が不利益を被っている不平等な状況で男女に同じ状況を作ること自体がさらなる不平等を作り出します。傾いている坂道を平らにするのに、下がっている方と上がっている方両方に同じだけ土を積んでもいつまで経っても傾いたままなのと同じでしょう。

自分自身の反省でもありますが、パワーハラスメント、セクシャルハラスメントにおいても『平等な世界での平等』を持ち出す状況ではありません。
マジョリティ側が感じる不平等性については、

『差別しているつもりがないのに、マイノリティが差別されているとして、その是正を求める政策は、マジョリティにとっては理不尽で不当な扱いを受けているように感じられる。女性が安全で安心して暮らせる社会の実現を訴えることが、全ての男性を性犯罪者あつかいしていると感じられるように、自分が差別主義者扱いされたような気がして、居心地が悪いのだ。』

と書かれていて、女性専用車両に不平等さを感じている男性もこの居心地の悪さを感じているのではないでしょうか。

つまりそれが自分の持つマジョリティ特権が見えていない、不平等の傾きが見えていないということなのでしょう。そして起きる差別についても気づかない。自分にとっても、マジョリティ特権、傾いた公平性を認識する努力が必要なのだと思います。

『相対的に特権を持っていて、今の体制が楽だと思っている人なら、平等への一歩を、望ましくないどころか「正しくない」とさえ思うかもしれない。』

『すでに特権を持った側の人間にとっては、社会が平等になることが損失として認識されるということだ。』

『ほんとうは、相手にとって社会が平等になれば、自分にとっても平等になると考えるのが論理的な考え方のはずなのに。』

悪意なき差別主義者への可能性は本当に身近にあるのだと思います。


自分の特権を認識する

「公平性の傾きに気がつくこと=自分の特権について認識すること」は今後の自分の行いにとっても非常に大事なことだと思っています。

しかし自分の特権を認識するのは簡単ではなさそうです。

『このように日常的に享受する特権の多くは、意識的に努力して得たものではなく、既に備えている条件であるため、たいていの人は気づかない。特権というのは、いわば「持てるもの余裕」であり、自分が持てる側だという事実にさえ気づいていない、自然で穏やかな状態である。』

何も起きなければ気づかない、そして

『自分にとっては何の不便もない構造物や制度が、誰かにとってはバリアになる瞬間、私たちは自分の享受する特権を発見する。』

のだとすると、やはり自分以外の人間との関わりというのもとても大事になってくるのでしょう。妻が妊娠して初めて体験したバリアや子育てをしていて感じるバリア、障害のある人と行動を共にしたときに感じるバリア、海外で生活するときに感じるバリア、ある程度実感を持てるものもありますが、性別についてなど逆の立場が体験しにくいものについては特に注意や勉強が必要なのだと思います。


特権のシグナルとして

『大きな努力なしに周囲の信頼を得て、ありのままの自分を表現しても安全だと感じ、問題が発生しても解決できるという自信を持てることがそれだろう。つまり、周囲の環境が自分に合わせて作られていて、いつも周りを意識している必要がないので、楽な状態のことだ』

ともあります。

このシグナルをたとえば自分の仕事のキャリアについて考えてみると、努力無しに得てきたと言われると受け入れ難い気持ちも生まれますが、しかしよくよく考えれば男性特権の元に今のキャリアが築かれてきたことは間違いなありません。そんな当たり前のことにも気づけていませんでした。更に言えば日本で活動する日本人であること、身体に障害が無いこと、育った家庭環境、努力なしに手に入れている数々の特権のもとに自分のキャリアがあることも恥ずかしながら改めて認識した次第です。

特にフリーランスで仕事をしている人は、自分の力でやってきたという実感を持っている人が多いとは思いますし、演出家なんてかなりそういう傾向にあると思います。ただ演出家も1人では何もできない仕事なので周囲の協力、感謝なしに成立しませんが、それでも自分が何か特別な特権の元にやってきたという自覚、たとえば自分が女性だったら、違う家庭環境だったら、第一言語が使えない環境だったら、今のキャリアは無かったという想像は自分にとってこれまで身近ではありませんでした。特権というのは、そもそものスタートラインや、巡ってくるチャンスの数のことで、スタートしてからの努力や、チャンスをモノにする以前の問題だと言うこと、特権について学ぶことで努力できる環境が既に特権の上に成り立っていることを、ようやく自分ごととして理解し始めることができました。


舞台芸術界の公平性の傾き

では自分の特権を意識することで何ができるのか、特権を持たない人への配慮を欠かないよう振る舞いを改めることはもちろんですが、特権がある=公平性が傾いているということを自覚し、傾きを正すことに努めるしかないのではと考えてはいます。

特に舞台芸術の現場では男性が活躍しやすく、女性に不利益が生じている状況がまだまだあります。演出家は男性の方が多いですし、それは男性が演出家に向いているのではなく、男性の方が演出家としてチャンスが多い状況があるだけだという認識を持ち、演出家のことだけではなく、業界全体にある傾きに気づけば正していく、それが今自分が持っている特権や権力の使い方なのだろうと思っています。

現状その傾きによってパワーハラスメントやセクシャルハラスメントが起きやすい構造を生み、実際に起きていることは改めて自覚していきます。
演出家は構造上どうしても一定の権力を持ってしまうので、自分の権力が何を引き起こす可能性があるのか、誰よりも注意しなくてはいけません。自分の権力性に向き合うためにも学んでいこうと思います。

改めて舞台芸術業界を考えると、長年にわたりまず演出家と俳優の関係が傾いていた。演出家が俳優の力を引き出すというような神話が当たり前とされていた。むしろ演出家が俳優がポテンシャルを発揮できる現場を作るのは当たり前のことで、俳優が不本意な演出家の指示に従わなくてはいけないということとは全く別問題です。全ての参加者がストレスなくNOを選べる現場かどうかがやはり大切なのだと思います。自戒を込めて、演出家の権力については世間の常識に照らし合わせれば完全な傾きとして認識すべきでしょう。そこに女性差別やセクシャルハラスメントが交差している。この現状を理解し、全体の公平性を考えて行動しなくてはいけないと改めて思います。

そして言わずもがなではありますが、既に起きているパワーハラスメントやセクシャルハラスメントに対しては絶対に許容することなく毅然とした態度と機運を作ること、これまで当たり前としてきたこと、見過ごしてきたことを反省し、改めます。現在様々な方の尽力により、業界の各所でハラスメント防止ガイドラインの策定が進みつつあります。ガイドラインは施行の範囲が決まっていますが、できるだけガイドラインのある現場を増やすことで少しでも業界全体でハラスメント防止の範囲を広げることができればと思います。まずは自分の関わる現場にもその活動を広げていきます。

『既存の不平等な関係の中で、望ましいと思われていた、ある慣習の合理性が疑われ始めたのである。』

『私たちはまだ、差別の存在を否定するのではなく、もっと差別を発見しなければならない時代を生きているのだ』

『差別は私たちが思うよりも平凡で日常的なものである。固定観念を持つことも他の集団に敵愾心を持つことも、きわめて容易なことだ。誰かを差別しない可能性なんて、実はほとんど存在しない。』

私自身も差別に対して、自分は善良な市民ではなく差別をする可能性があると認識を改めます。そして舞台芸術界の現状をどうすれば変えていけるのか、引き続きこのnoteでも学びながら考えていければと思います。


差別構造の根深さ

『否定的な固定概念を刺激すると、否定的な固定概念を打ち破らなければならないというプレシャーがかかり、そのプレッシャーのせいで遂行能力が低下し、結局は固定概念通りに否定的な結果になる。このように重圧がかかる状況をステレオタイプ脅威と呼ぶ。』

たとえば「女性にしては上手い」という指導者のもとでは女性は上達しない。そしてこういった否定的な個体概念、偏見は世に溢れている。
更に3章で触れられているのは、韓国での男女の収入格差について、

『女性は数学が苦手だという文化的な固定観念を受け入れ、自分の能力を低く評価することで、女子学生が数学関連の進路選択を回避する傾向がある』

そして、女性の就職率が高い分野は賃金の水準が低い。
ここで問われるのが、あくまで女性自らが職種を選択しているので、これは差別ではない、のか。そこには社会構造として組み込まれた差別がありました。日本にも同じように当てはまり、その根深さがわかるだけにどうしたらいいのか途方に暮れますが、考えなくてはいけないことです。

『性別によって分かれる専攻分野と進路の「選択」は、果たして本当に社会的差別と無関係なのだろうか。女性としてどんな専攻分野が就職に有利か、結婚して子育てをしながら仕事を続けるためにはどんな職業が良いのかなどの選択は、既に労働市場と社会全般にある差別を前提として行われている、女性だけではない。障害者、セクシャルマイノリティ、移住者など、自分が持っている不利な条件を既に認識している人々は、その条件に合わせて行動する。そして、そのような行動の結果は、皮肉にも差別的な現状を維持する方向へ働いていく。』

『このように、構造的差別は、差別を差別でないように見せかける効果がある。既に社会に差別が蔓延した状態が長く続いており、十分に予測可能なとき、とくに意図しなくても、社会構成員の全てが各自の役割を果たすだけで、差別がおこなわれることになる。』


つまり、この不平等な世の中においては社会生活を送るだけで差別に加担しているという。

『私たちは疑問を持ち続ける必要がある。世の中は本当に平等なのか。私の人生は本当に差別と無関係なのか。視野を広げるための考察は、全ての人に必要だ。』
『考察する時間を設けるようにしないかぎり、私たちは慣れ親しんだ社会秩序にただただ意識的に従い、差別に加担することになるだろう』

本当にその通りで、そして慣れ親しんだ社会秩序に従わないことの困難さを突きつけられる。やらなくてはいけないことは、全ての人に考察が必要だと思ってもらうこと、そのために1人でも多くの人に知ってもらうことだろう。特にマジョリティ特権については、気付きにくいということもあり、自分もまだ気づいていないことが多くあると思いますし、考えていき、伝えてもいかなければと思います。

本当にこの本は今まで読んでいなかったことを反省しないといけませんでした。来週も今回の続き、2部以降について書ければと思っています。

マジョリティー特権については上智大学の出口真紀子さんのこちらのページの記事を読むだけでも目から鱗がボロボロと落ちていきます。


日々40代の自分達の世代の行動、振る舞いの難しさを感じています。
自分達の慣れ親しんだ社会秩序を否定し、新しい秩序を整備することを求められています。変わるしか無い。変えていくしか無い。自分にどこまでのことができるかわかりませんが、勉強を重ねていこうと思います。

勉強の記録として、勉強を習慣づけるための投稿でもあり、文章として読みにくい部分も多々あると思います、気づけていないことや間違いなどもあればご指摘いただけると幸いです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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