自己矛盾論
友だちが最近
「相手の考えを否定しない」
と言うスタンスに疑問を持ち頭を悩ませているようだ。
そこで私も
「相手の考えを否定しない」
ということについて考えてみることにした。
彼は言う
「人の悪口言うやつ最低っていうお前が最低じゃないか」
そして、
「傍から見れば自分も同じじゃないか。
自分も最低なヤツらになってしまっているのではないか」
と頭を悩ませている。
これは極端な例だ。
私にも分かりやすいように彼なりに噛み砕いて伝えようとしてくれたのだ。
彼は自分の持っている価値感が余りにも明確に定まっており、それ故自分と相手の価値観や考えの相違を敏感に感じ取れてしまうのだろう。
彼の悩みの本質は、その敏感さから自分と合わないと感じる価値観や考えが彼の中でそのまま否定に直結しやすい彼の性格から来るのではないかと考える。
彼は
「自分も最低なヤツらになってしまっているのではないか」
と傍から見れば自分も同じだと言うが根本的に違うところがある。
彼の場合、
その否定的な考えをそのまま考えもなしに口に出してしまうようなことはしない。
という点だ。
彼は、相手の発言からくる自分の否定的な考えや感情を「持つ」ということ自体に自己嫌悪してしまっている節がある。
考えや感情はこの世で最も自由である。
それがどんなに反社会、反道徳的なものでも、
何者にも縛られないし、何者にも口を出す権利は無い。
考えや感情が暴力に変わるのは言葉に変わってからである。
彼はそれを理解しているし、現に不用意に言葉にしてしまうようなことはしない。
彼は相手の考えを否定などは全くしていないのである。
「相手の考えを否定しない」
でGoogle検索をかけると会話術、教育、自己啓発的のものなど様々な文脈から語られる記事が大量に見つかる。
論点は様々だが、共通しているものは
「相手の考えを否定する」
ことについて否定的であることだ。
記事によっては肯定することを余りにも良しとしすぎていると感じるものもある。
人間の持つ感情や考えは本来肯定、否定だけの二元的な基準で評価できるほど単純なものでは無い。
言葉ができて、コミュニティが出来、それが社会に育ちその中で折り合いをつけるのに便利だから二元的な基準で物事を評価しているに過ぎない。
はいといいえだけの心理分析は見たことがない。
はいといいえで済まないからこそ正解も間違いもない。
重用なのは「そうゆうものであると知っている」という事と、「相手の考えを理解しようとする努力」では無いだろうか。
ただこの考えも誰かにとっては
「なんだそれ」
ってなるものだろうし、誰かを傷つけ得るものである。
誰もが抱える矛盾だ。
死ぬまでには抜け出せるのだろうか。
抜け出せない矛盾であるからこそたまに目を向けて少し考えることで消化できるモヤモヤもあるのかも知れない。
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