第1次教育令
公布日
1879年(明治12年)9月29日公布の経緯学制がもともと欧米の教育制度を模範に定められたこともあり、当時国力や民情、文化の異なる日本で全国的に画一的に実施することが困難で、多くの問題が生じていた。学校の運営に要する地方の経済的な負担も大きく、地方の事情が考慮されていなかったため、極力地方の事情を考慮し円滑に教育制度を進めていく必要があり、文部省では1877年(明治10年)に文部大輔の田中不二麻呂を中心として設置された委員が学制の改正に着手し、学制に代わり教育令が公布されるに至った。
公布までの流れ
・1877年(明治10年)- 文部大輔の田中不二麻呂を中心として設置された委員が学制の改正に着手。
・1878年(明治11年)
5月14日 - 新しい教育法案としての「日本教育令」が整えられ草案が上奏される。5月23日 - 文部省が学制の施行規則である小学教則・中学教則略その他の諸規則の廃止を布達。
・1879年(明治12年)
9月26日 - 太政官と元老院で審議修正、上裁を経て太政官布告第40号をもって「教育令」として公布。
教育令の内容・特徴(概要)
・学制の中央集権的、画一的性格を改めて、教育の権限を大幅に地方にゆだね、地方の自由にまかせた。
・全文47条からなり、学制に比べて簡略化されていた(その分、これに付帯して各学校に関する詳しい規定が徐々に公布される方針であった)。
・学校を「小学校・中学校・大学校・師範学校・専門学校・その他各種の学校」に分ける。
・まず初等教育の環境を整え確立するために、多くの条章が小学校に関するものであった。
・学区制を廃止し、町村を小学校設置の基礎とする。
・督学局・学区取締の規定を廃止し、町村住民の選挙によって「学務委員」を設置し学校事務を管理させることにする。
・就学義務を学齢期間中少なくとも16ヶ月とし、学校に入学しなくても別に普通教育を受ける方法があれば就学と見なす(就学義務の緩和)。
・公立小学校の修業年限を8年としたが、4年まで短縮を認め、毎年4ヶ月以上授業すればよいとする。
・私立小学校があれば公立小学校を設置しなくてもよい。
・資力に乏しい地方では巡回教員による方法も認める。
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