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浅城麻絢/作詞・作曲「童謡=赤い花 ‘Story」2019年4月


それは1本の日本映画との出会いから始まった。

平成31年1月中旬。私の心を掴んだのは「この道」という日本映画だった。これは、北原白秋/作詞・山田耕筰/作曲の名曲を主題にした映画である。
子どもの頃から親しんできたこの歌が私は大好きだった。心に刷り込まれていたと言ってもいいほどである。母と娘(息子)の心の情景がよく表されている、“日本の宝”とも言うべきものだといつも思ってきた。

私は洋画を中心に観るのであるが、時には話題になった邦画を観にいくこともある。今回、この映画を選んだのは、たまたま北原白秋と山田耕筰の名前に惹かれたからである。
映画の内容は、彼らの出会いから、共に曲作りをするまでを描いているが、それ以上に私の印象に残ったのは、この映画の挿入歌「この道」を歌った歌手であった。

今まで「この道」を聴くのは合唱曲として、あるいは、クラシック歌手たちの歌を通してだったが、この映画で流れてきた歌は、それまでの私の記憶にある「この道」のどれでもなかったのである。
それは、これまでに聴いたことのない、まるで空気のように柔らかい「この道」であった。「こんな歌い方があったのか…」と言うほどの衝撃であった。まさに「目からウロコ」状態。

誰が歌っているのかさえわからないまま、その異次元とも思える歌い方に心を揺さぶられながら映画館を出て、その余韻にひたりつつ家に帰った。
そして、ネット検索してEXILE ボーカルATSUSHIの歌だということを知った。顔さえも浮かばない、うっすらとしか知らない歌手だった。

翌日会社の同僚にそのことを話すと、「ATSUSHIは歌上手いよ!」と聞き、改めて興味がわいてきて、その日からしばらくのあいだ、動画でATSUSHIが歌う「この道」を聴いて過ごした。
いつでも聴けるように、ネット通販でCDを買い、いよいよATSUSHIのファンへの道を歩き始めたのである。

そんなある日、私は“あること”をふと思いついた。まさに天から降りてきたという感じ。
もともと童謡が好きだった私は、高校卒業後、保育士になるために、東京・新宿区の社会福祉専門学校に進学した。

その学校の音楽の授業の卒業課題が、童謡の『作詞・作曲』であった。たまたま私の作った歌を担任の先生が気に入って下さり、卒業までの数週間、音楽の授業が始まる前に私の「赤い花」を歌うことになった。それは最後の授業まで続いた。

しかし、先生から好評だったとは言え、私の「赤い花」は童謡という、子どもたちが歌うことを前提としているため、意図的にシンプルな作りになっていた。しかし、最後の授業で、他の学生の優秀作を何曲か皆で歌った時の恥ずかしさは忘れられない。

彼女たちの作った歌はシンプルどころか、複雑な音階を駆使した、壮大な作品ばかりだったことに、心底驚いたのである。
そんな苦い思い出のある「赤い花」であるが、私自身は気に入っており、長年折にふれ、くちずさんできた愛唱歌であった。私はその記念碑的な歌を「どういう形でもいいから世に出せたら…」と胸に秘めていたのだ。

そういう経緯もあり、『「赤い花」の歌を作ろう!!』と決心した私は、どういう形で世に出すかを真剣に考え始めた。本当は自分が歌うのがもっとも理想的ではあるが、そのためには、人様に聞かせられるほどの抜きんでた歌唱力が必要不可欠である。

しかし、そんな力は自分にはないのが分かっているので、「ならば、誰かに歌ってもらおう!」ということで落ち着いた。
さっそく、梅田付近でのストリートシンガーの品定め&スカウトに繰り出した。
私はよく彼らの歌を立ち止まって聴いたり、気に入ればCDを買い、チラシをもらったりもしていたので、彼らが歌うスポットはだいたい知っていた。

映画を観てから1週間後に、ルクア東側の1階にある路上ライブの場所へと出向いた。20時過ぎだったが、そこには男性1人と女性2人のシンガーがいて、そのうちの1人の女性が歌っているところに遭遇した。

その声は済みきっていて、音程もしっかりしている。私は「赤い花」を歌ってもらうとしたら女性がいいかなと、なんとなく決めていたので、このシンガーが歌い終わるのを待って声をかけた。

「私が学生時代に作った童謡を歌ってくれませんか?」という問いかけに「えっ、私でいいんですか?」という、色よい返事をいただいたので内心「しめた!」と思った私は名刺を渡し、彼女の連絡先を書いたチラシをもらった。
その後、もう1人の女性シンガーが歌いだしたのを機に、次はJR大阪駅前のグランフロント付近のライブスポットに行ってみたが、その夜はライブはやっていなかったので、元の場所に戻ったところ、今度は男性が歌っていた。

その歌声にひと目惚れ(ひと声惚れ?)した私は、隣にいた先ほどの女性シンガーに「この子、歌すごく上手いね!」と言うと、彼女はため息まじりに、「そうなんです!彼はコンクールでも受賞しているんですよ。あなたの童謡を歌ってもらうのは彼の方がいいかもしれませんね」との返事が返ってきて、彼の実力が本物であるとの確信を得た。

やがて、彼の歌が終わってからまたも声をかけに行った。
「私が学生時代に作った童謡を歌ってもらえませんか?」と。
「えっ、あぁ、いいですよ」と嬉しいことに、これまた色よい返事。

そして、私の名刺を渡し、彼のCDを買い、連絡先が書いてあるチラシをもらい、帰宅してすぐにメールを入れたのである。ちなみに、彼のシンガー名は“たせやん”。
もちろん、先に声をかけた女性シンガーにもメールをして、「デュエットでもいいですか?」と聞いたところ、今回は辞退ということになり、申し訳ないと思いながら、彼女の気持ちを受け入れることにした。

ここから「赤い花」プロジェクトが動き出す。
さっそく自分で歌を録音してたせやんに送り、ギターの弾き語りの録音をしてもらうことになった。次に、歌を動画配信するために動画制作会社をネットで探し、連絡をしたところ、打ち合わせに伺うことになったので、2月上旬にたせやんとふたりでその会社を訪問。

対応してくれたのはその制作会社のCOO。
カメラマンとしての長い経験を持つ人で、どんなコンセプトで動画を制作するのか、録音スタジオを使用するのか、動画撮影の場所の取り決め等、子細に検討を重ねた結果、2月中旬にたせやんから、私と制作会社の両方に音源を送ってもらうことになった。

撮影前にそれを聴くことで、制作会社に「赤い花」のだいたいの雰囲気をつかんでもらうためである。録音は彼の家のスタジオでしてもらうことになった。

そして、いよいよたせやんから音源が送られてきた。やっぱり私の勘は当たった。素晴らしい出来栄えだったのである。しかも、自分の普通の音階と、私の音源に合わせて、高音での音階の2種類が録音されていた。

当初はどちらか一方を採用予定であったが、何度も試聴するにつれて、どちらも捨てがたいことに気付いた。ならば、無理に片方を選ぶよりも両方とも使うまでである。

その結果、たせやんへの謝礼は2倍に膨れ上がってしまったが、そんなことは些細なことだと割り切った。
私の「一世一代のプロジェクト」を成功に導くためには犠牲も払わなければならない。

さて、次は、一番大事な撮影場所の決定である。
私には当てがあった。それは1月中旬に雑誌の取材で行った、高槻市の「プラットCafé」である。取材前にネットで検索した際に見た店内の内装に、私は強く惹かれた。取材当日に実際に見たCaféは想像以上で、しかも嬉しいことに私の好みにあっていた。

取材が終わり、Caféから退出する前、私はオーナーに、「ここでイベントをすることは可能でしょうか?」と質問して、快くOKをもらっていたのである。そんなこともあり、制作会社との打ち合わせのあとすぐにオーナーに連絡を入れて、Caféでの動画撮影の許可を取りつけた。

2月の最後の日曜日の午前9時に私たちは予定どおりにプラットCaféを訪れた。
制作会社からはCOOとベテランカメラマンが来てくれており、Caféの奥まったソファでのたせやんの口パクでの撮影が始まった。ギターは実際に弾くことになっている。

何回かのテストの後に、たせやんから「カンペ作り」を頼まれたので、オーナーからもらった紙に「赤い花」の歌詞を急いで書いて渡した。彼はそれを横目(下目)で見ながら、音源どおりに口パクをしていく。

たせやんが奮闘している間に、私は映画業界の真似をして「メイキング映像」を撮影。そして、店の隅でオーナーといろいろな話を楽しんだ。
無事に撮影が終わり、オーナーに謝礼を渡し、Caféから次のロケ地へと制作会社のバンで移動。次なる撮影場所は「摂津峡」である。

「赤い花」の音源が2種類あることから、制作会社からの「自然のなかで撮影をしたらどうだろう」という提案を受けて実現したのだ。

その日は輝くような晴天であり、いい画が取れそうな予感とともに「摂津峡」に到着。
スタッフが「摂津峡」の入り口に止めたバンから撮影機材を担いで下方の川まで降りていき、撮影する場所を滝の前に決定。ゴウゴウと鳴る滝の前でたせやんが音源を聴きながらの口パクで撮影がスタート。

ここでもギターは実際に弾いている。そして、ひまな私は後方から「メイキング映像」を撮影。

たせやんの撮影が終わったあと、COOがカメラマンに何かを指示しているのが聞こえた。何かな?と思いながら駐車場のバンに引き返したカメラマンを待つこと5分。やがて、彼はドローンを持って戻ってきた。
たせやんと私は驚くやら嬉しいやらで大はしゃぎ!!すぐに、ドローンでの撮影が始まった。

映画などでしか見たことのないドローンを、初めて目の前で見る機会に恵まれ、さらに気持ちが高揚したのは言うまでもない。そのドローンもしっかり「メイキング映像」に残した。

この「メイキング映像」は、撮影の終了後、たせやんと制作会社にプレゼントした。お互いにいい記念になったと思う。

ロケも終わり、制作会社と別れ、すっかりリラックスしたたせやんと私は、タクシーで高槻市駅に戻り、近くのレストランで打ち上げのランチ。午後から路上ライブがある彼のために肉料理をごちそうして、労をねぎらい、しばし心地よい休息にひたる。

その後、2月の最終日に、新たに追加したピアノ入りの音源がたせやんから届く。彼の知り合いにピアノ演奏を依頼してくれたそうで、ギターに重ねたピアノが、音の広がりをもたらしていた。

3月中旬に制作会社がYouTubeに「赤い花」の動画をアップ。

同時にアドワーズ広告もスタート。

後日、お世話になったプラットCaféを再訪。
撮影のお礼をかねて、1月の取材時にゆっくり味わえなかったランチをいただくのが目的だった。オーナーとCaféの内装のお話などで楽しく過ごす。

動画制作が上手くいって欲が出てきた私は、YouTube以外の露出は何がいいかと考えた結果、大勢の人が見るデジタルサイネージ広告が最適だと気づく。費用は高いが、それなりのインパクトが期待できそうなところに惹かれたのである。

交通広告を出すことを念頭に、数年前、私の本の宣伝のために「大阪地下鉄御堂筋線」車内広告でお世話になった広告会社の担当者に接触。
この広告会社は、大手広告会社の下請けで、鉄道広告に強く、また私が信頼する会社でもあり、今回の打ち合わせもスムーズに進んだ。

Osaka Metoro 御堂筋線梅田駅/千里中央行きホームでのデジタルサイネージ広告申請を出すための動画作りが必要になったので、先般の動画制作会社に、15秒に短縮した動画を新たに依頼する。

このホームでのデジタルサイネージ広告では音は出せないため、映像のみの描写になるが、大阪でいちばん乗降客の多いホームでの広告宣伝はおもしろくなると予感した。

15秒動画を審査に出してしばらくすると、「Osaka Metoroからビジュアル審査が承認された」との連絡があり、正式に放映日程が決定。

・4/1(月)~4(木)6時~24時「プラットCafe編」放映
・4/5(金)~7(日)6時~24時「摂津峡編」放映

放映開始の4/1(日)の夜遅くに、路上ライブを終えたたせやんとホームで合流し、彼が同伴してくれたファンの女の子に、たせやんと私のツーショットを撮影してもらい、喜びを分かち合った。

続いて、今度はビジュアルだけでなく、音源も流せるデジタルサイネージ広告を打てる場所を広告会社に探してもらったところ、難波南海電鉄/高島屋前地下でなら可能だとわかった。

もう一度動画制作会社に新たに15秒動画を依頼。梅田駅ホームとは違うデザインを仕上げてもらう。
そして、広告の審査に通り、日程と配信時間帯が決定した。

・4/15~18 6時~24時「プラットCafé編」放映
・4/19~21 6時~24時「摂津峡編」放映

今度も路上ライブ後のたせやんと、初日の4/15の夜に落ち合い、前回と違うファンの女の子に記念撮影をしてもらう。

このデジタルサイネージ広告だが、私はもちろんのこと、動画制作会社と広告会社にとっても初の試みだったため、準備には予想以上に手間どった。
15秒動画のサイズや納入規格等、何度も修正を加えた末に完成したので、関わった人たちも感無量だった。

ちなみに、作業の進め方は、広告会社からの指示を私が制作会社に伝え、出来上がった動画を私が広告会社に渡すという流れだったので、動画制作の過程をじっくり観察・経験する貴重な機会を持てたことが、私の実績にもなったわけである。

さて、次の段階として、「赤い花」の著作権の問題がある。ある日突然、誰かが『「赤い花」の作者は自分だ!』と言い出さないとも限らない。それを阻止するためには、最速での『著作権登録』が必要になる。

数年前に商標登録でお世話になった弁理士の先生に連絡を入れ、地下鉄御堂筋線梅田駅ホームのデジタルサイネージ広告が始まった次の日に会いに行き、文化庁への登録申請を依頼。

先生も楽曲を扱うのは初めての経験で、試行錯誤しながら申請が完了したが、歌詞は日本語と英語の両方を字幕表示することにしたので、費用も2倍かかった。
だが、海外からのアクセスも多い私のホームページでも「赤い花」の動画を流すこともあり、やむを得ずの処置となったのである。

紆余曲折を経て、動画も無事にアップされ、「著作権登録」も済み、私の念願はついに叶ったのである。

あとは、動画配信のために用意しておいた、自分のYouTubeチャンネルへの動画投稿を随時更新・持続させることが必要になってくる。しばらく放っておくと、アカウントが自動消滅するので、「赤い花」に関する一連のイベントが終了した後も、何かの動画を投稿し続ける必要があるので、気が抜けない日々が続いている。

さて、いつもの日常が戻ってきて、しばらく経った6月中旬、たせやんから6月末に自身初の『CD発売ワンマンライブ』の案内が届いた。
梅田のライブハウスで、100人動員を目指しているとのことだった。そして、ライブの途中で「赤い花」の動画を流すことを考えているので、私にもライブに来てほしいと依頼されたので、友人を2人誘う。

ライブにいく楽しみができたこともあり、たせやんに何かプレゼントをしようと思いついた。
こういう場合は、花束を持って駆けつけることが普通だろうなと思ったが、たせやんは男性だし、花よりも何か他の手土産にするべきかを悩んだすえ、出てきたアイディアは、ライブの「動画制作」のプレゼントだった。

初めてのソロライブは彼にとっても重要なイベントであり、将来の営業にも影響が大きいだろう。
そこで、彼に「ライブの動画は撮る予定なの?」と聞いたら「はい、自分で撮る予定です」とのこと。しかし、個人での動画撮影には困難な点がいくつもあるし、今回は音源も入るので、素人にはちょっと無理なような気がした。

急きょ、「赤い花」の動画を制作してくれた会社のCOOに電話して、6月末の夜に仕事が入っているかどうかを尋ねたら、大丈夫との返事がきたので、たせやんのライブの動画撮影・録音を発注。
普通はカメラ1台でいけるが、ライブハウスの場合は広いこともあり、カメラ数台とカメラマン2人をお願いした。

その後、たせやんにこのプレゼントの件を伝えると、とても感激してくれた。ライブ当日までの時間的な余裕が2週間ぐらいしかないので、打ち合わせはたせやんとCOOで直接してもらうことにして、私は発注に際してふたつの条件をつけた。

①動画が完成したら、たせやんと自分に1本ずつもらうこと
②「赤い花」が流されるシーンをカッティングしてもらうこと

こういう世界では、発注は前払いが常識となっているので、契約してすぐ動画会社に振込みをしたが、この費用の合計は13万円!!

通常のライブであれば、2万円前後の花束で済むところだが、これもかわいいたせやんのためと、ちょっと古いが、「清水の舞台から飛び降りる」ぐらいの気持ちで支払った私である。

さて、ライブ当夜は早めに行って入り口前のベンチで時間待ちをしていたら、動画会社のカメラマンがせわしなく会場と外を出入りしていた。
「赤い花」ロケの時のお2人であった。久々の再会にうなずきあいながらの目礼に留めた。準備に忙しい彼らを煩わせないためである。

いよいよライブ開始。

たせやんはギターを持ち、バンド仲間とのセッションが始まった。ピアノ演奏は「赤い花」の録音に参加してくれた、たせやんの友人で、初めて顔を合わせることができたのも何かの縁だろうか。

ライブも中盤にさしかかり、たせやんから「赤い花」への説明がなされ、「今日この動画撮影を依頼してくれた人が会場に来られていると思います」とのアナウンスがあり、しばしの静寂が訪れたが、舞台近くに座っていた私は、手を挙げるのを控えた。
それは、せっかくのライブの進行の邪魔をしたくないとの理由からだった。
この初のソロライブは、たせやんにとって一生に一度の晴れ舞台。よけいな演出でライブの流れが中断されるのを避けるためである。

やがて、摂津峡でのシーンが流れ、滝の前で「赤い花」を歌うたせやんがアップで映し出される。私はなんとなく誇らしい気持ちになった。本当に自分の歌にふさわしいシンガーを見つけたのだという思いがあらためて湧き上がってくる。

ライブ終了後、この夜初めてたせやんと顔を合わせて、一緒に写真撮影。なにもかもが最良の日になった。
もうひとつうれしいことを上げると、たまたま私の隣に座った女の子は、4/1に御堂筋線梅田駅ホームでのたせやんと私の写真を撮ってくれた彼女だったのである。

先に私が気づいて声をかけ、ホームでの写真をスマートホンで見せたら思い出してくれて、再会を喜びあった。“音楽の神さま”はこんなおまけまで用意してくれていたようである。

平成31年の始めに観た、1本の日本映画が私にもたらした奇跡。それは本当に奇跡としか思えない。
たせやんはよく「峰さんと出会ったのはぼくにとって奇跡です!」と言う。
考えてみてほしい。

大阪はもとより、全国で何人もいるストリートシンガーたち。そのうちで何人がメジャーデビューできるだろうか?
多分、ほんの一握りだろう。
そんななかで、ちょっとした思いつきによる私の声がけから、たせやんというシンガーに少しだけ“陽”が当たった。
動画撮影だけでなく、デジタルサイネージ広告という媒体にも顔を売ることができ、初めてのソロライブの動画もプロに撮影してもらうことができたのだ。

その実績は、彼の今後の営業活動にも大きな力を持つだろう。この世は何よりも実績がものを言う。
余談ではあるが、御堂筋線梅田駅ホームでのデジタルサイネージ広告を、たせやんの友人が偶然目にし、「びっくりした~!」と連絡してきたそうである。

また、たせやん自身のSNSでの投稿を通して、たくさんの人たちにアピールできたことも大きいだろうし、私のSNSでの露出も、微力ながら、たせやんにとって追い風となるに違いない。

それにしても、人の運命ってわからないものだ。予期せぬことが起きる時がある。そして、それを掴んだ瞬間から新しい何かが生まれる。
私は、自分の作った歌を歌ってくれるシンガーは、探し始めたその日に見つかるだろうという予感がしていた。時々私の直感は当たる。

もし、すぐに見つからなければ、あちこちの路上ライブスポット巡りの運命に取り込まれていただろう。
「あの人がいい」「この人もいい」と迷ってしまったら、このプロジェクトは完成しなかったかもしれない。

たせやんに出会った運命のあの日、「今夜、必ず見つける!」という確信に導かれてあの場所へ行ったのだ。
<すべては、EXILEボーカルATSUSHIの、やさしげな歌声から始まった。>




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