見出し画像

クレール・ドゥニ『パリ、18区、夜。』ダイガの移動について 2/2

リトアニアの首都ビリニュスからパリに至る長き道のりをともにしたオンボロ車を売却するために、ダイガは、「ギアがおかしい」などといちいち文句を垂れるディーラーと、通訳を担当するヴァシアとともに、そもそもこの車は売れるか否かレベルの商談をしながら、夏のパリを走っていた。そんななか、たまたま渋滞に巻き込まれたシメートフを(停車していた際に)目にしたダイガは、試乗していたディーラーからハンドルを奪い取り、シメートフをめがけて追走する。同乗する二人は、「売るのやめたわ」と宣言したダイガの危険運転に慌てふためきとやかく騒ぎ立てるのだが、ときすでに遅し、ダイガは怒り狂った様子で、「黙ってよ」と一蹴する。

この向こう見ずな振る舞いはさておき、ドゥニは以下に記した車の売り込みにおいて、密かに二項対立を脱構築し、ダイガのキャラクターを示している。

一向に買う気配のないディーラーに、ダイガは「幾らなら買うの?」と交渉を持ちかけるのではなく、「そろそろ決めてよ」と言わんばかりに、「買うの 買わないの?」と二者択一を迫る。これを、「買う(売れる)=プラス」と、「買わない(売れない)=マイナス」と二項対立と捉えた場合、「売るのやめたわ」ということは、そのどちらでもないまったくの白紙を意味する。が、しかし、「この苦労を無にするのか」と反応を示したヴァシアにしたがえば、売らないことは「無=マイナス」であるから、否応なく「買わない(売れない)=マイナス」と等しくなる。ドゥニはダイガについて、「お金はないけど希望はある[…]強い女」と述べている。それは、「潜在能力を秘めた女」とも言えるだろう。

1

ダイガと同乗していたディーラーに、「故意にぶつけたと?」と、ダイガの車内の様子を聴いた警察官に、「そう 故意よ」と、ダイガは胸に手を当て罪を申告する。ところが、被害者であるはずのシメートフは、すでに「バックして車にぶつかった」と警察官に言っており、さらには(「そう 故意よ」を挟み)「僕は訴えませんよ こっちが悪い 完全に僕の方のミスだ」と呆れた様子で、しかし徹底して、ダイガを法的措置から逃そうとする。それは、ぶつけられた原因にぶつかったゆえの配慮なのかもしれないが、両者の主張の根拠が示されていないがために、追突の動機・原因を決定づけることはできない。そしてまた、ことの真偽を見極めるはずの警察官が聴き取ることは、バックして、あるいは故意に「車にぶつかった」という結果のみであり、遂には、「こっちが悪い」と信念を貫くシメートフに、「いいんですね」と釘を刺し、調査を切り上げる。そしてこの流れで、警察署に連行されたダイガは、にもかかわらず、容疑の認否を問われることもなく、「ここは禁煙ですよ」と速やかに締め出され、追突事故の真相は、タバコの煙とともに雲散霧消する。言い換えれば、善悪の対立がなくなりカオス化する、そういった型破りな世界が描かれる。

次から次へと締め出されながらも、融通無碍に展開する、そんな「ダイガの移動」を考えていきたい。先ずは、シメートフとのやりとりを見てみよう。

2

ミーティングルームからダイガを廊下に連れ出したシメートフは、壁にもたれるダイガを口説くかのように、「一緒に食事に行かないか どう?」と誘いながらも、「明日?」と返事を聞くと、「いや 君の好きな時でいい」と答える。この戸惑いを覚える矛盾した返答は、恐らく、「パリには?」というシメートフの問いかけに、「ずっといるわ」と答えたダイガへの皮肉であり、「ずっといるわけだから、明日や明後日でなくてもいい」、ということなのだろう。となると、「役者になれる」という確信に満ちた一言が裏目に出た結果として、ダイガは確実に、ヴァシアの部屋に居候するナンセンスな「ブルガリアの踊れないダンサー」のように、方向(=意味)を見失った「リトアニアの演じられない役者」、すなわち「移民」になる。身動きの取れなくなったダイガは、シメートフの声を待ちわびるホテルの従業員としての生活を余儀なくされるのである。ニノンは、そのような無意味な日常世界に足を踏み入れたダイガに救いの手を差し伸べる。

ホテルに戻り、トイレの洗面台を黙々と磨いているダイガに、ニノンは「うまくいった?」、と尋ねた。するとダイガは、「ええ」と答えるが、その様子に覇気を感じ取ることはできない。ニノンはダイガの複雑な心境には触れず、「ここから出ていけるの?」と即座に問いかける。そして「たぶん来年」と返事を聞くと、「来年ね」と時期を確認し、落ち込んだ様子のダイガを励ますのだった。雲行きが怪しくなったダイガを勇気づける、そんな印象を受けるやりとりであるが、ここで注意すべきなのは、この「来年ね」という発言が、シメートフがダイガの返事を繰り返し述べた「ずっといる」という発言と、「移民」=「リトアニアの演じられない役者」になることにおいて共鳴することだ。つまり、「来年ね」はホテルを出る時期の確認ではなく、上述のダイガの意に反する良からぬ方向を示している。それゆえ、ニノンの激励(「ひどい格好だけど あなたは美人よ 鏡をごらん すべすべした顔 恵まれてるわ どんどん運が開ける 今は貧乏でもね」)は必然的に、方向転換を示す内容となる。すなわち「脱目的」なのだが、それはどういうことなのかを、本作のキーポイントである「鏡」を通して考えてみる(以下の考察には、カミーユを取り上げている)。

本作を注意深く見ていくと、ダイガは、役者を目指しているにもかかわらず、ダイガみずからが鏡を見るショットが一つもないことに気づく。それだけでなく、カメラは明らかに(カミーユの部屋に侵入した際に、クローゼットの扉に設置された鏡に映り込む以外)、鏡越しにダイガを捉えることはない。上述のダイガを励ます場面では、ニノンは「鏡をごらん」と、ダイガの体を鏡に向かわせるのだが、カメラは真横から位置を変えることなく撮っているために、鏡越しにダイガの顔を見ることはできない。また、イラとダイガが訪れたニノンの武術道場の壁には、道場全体を映し出すほどの大型のパネルミラーが掛けられており、否応なしに鏡に映り込む位置関係にあるなかで、イラとダイガは、多発する老女殺人事件を念頭に置いた(お世辞にも太刀打ちできるとは思えない)稽古を見ているのだが、その際のカット割は、複数の視点から撮られている稽古に対して、ベンチに並んで座っている二人は前方からのショットに限られているために、鏡越しに見ることはできないし、稽古を捉えたどのショットにも映ることはない。さらに言えば、シメートフと会う以前の場面で、仕事の休憩上がりなのだろう、ニノンに励まされる場面と同所のトイレの洗面台でタバコの火を消した後、コーヒーカップやタバコを乗せたトレーを床に置き、作業を開始する。この間、ダイガは目の前にある鏡を見ることはないし、カメラはダイガの動きを右斜め上から撮っているのだが、やはり、鏡は避けている。

空間が狭いことも相まって、それが不自然に見えるわけではないが、しかしダイガの視点から、鏡=鏡像が欠如していることは明らかである。

一方、ショー・ビジネスでの成功を夢に抱くカミーユにおいては、ホテルの階段に設けられた鏡のほか、ホテルの正面玄関のガラスドアやショーウィンドウ、等々、カミーユを映し出すものはパリの至るところにあるだろう。また、「ひどい車」だったり、「ひどい格好」だったりと、理由はどうあれ、装うことに対する関心のなさをニノンに指摘されるダイガとは対照的に、最先端のファッションに身を固め、ナイトクラブに入り浸るカミーユは、革のパンツやタキシード、そして胸が露わになる黒色のドレスを身に纏い、みずからを表現する。カミーユがモデルの写真や絵画を含め、装うこと(=仮象)と、パリの夜に生きることは同義的であり、その意味において、パリの夜は、カミーユを映し出す本質的な鏡である。反対に、朝、兄の部屋に帰ってきたカミーユは、子供の世話をする兄がいる窮屈なバスルームで化粧を落とすのだが、そのときカメラは、鏡を見るカミーユの上半身を真横から撮るという、ニノンに励まされるダイガを撮る視点と同じ視点で撮ることに徹してために、鏡越しにカミーユの顔を見ることはできない。とこのように見ていくと、ダイガとカミーユは、決して対照的に描かれていないことに気づく。むしろ、対照的に描かれていることさえも、二人の共通項として示されている。

ニノンはダイガに、「鏡をごらん」と言った。その発言は、カミーユを踏まえれば、ダイガが受動的かつ非生産的な状態であることを示していることがわかる。しかしその一方で、ドゥニが、「ダイガは、何ものからも疎外された部外者です。つまり異邦人の視点を象徴しているのです」と述べるその「異邦人の視点」というのが、オデオン座の舞台に立つことを目的とする「ここ(現在)」から逃れた異なる時間軸に属するダイガの視点であり、「ここ(現在)」に属するたとえば落ち込むダイガは、表現されたダイガの鏡像、すなわち「名もなき役者」になる。

ニノンは時間を持て余すダイガに、「ここがすべてではない。ほら、外へ出なさい!」、そう言っているのではないだろうか。

カオス=パリ18区での日常生活などを、コスモス=「演じること」に吹き込んでいく。そうすることによって、オデオン座の舞台に立った経験のない過去と未来の双方にまっすぐ延びていく永遠(アイオーン)のなかで絶えず繰り返し、様々な出来事を演じることができるのである。つまり、イラもヴァシアもニノンも、ポーラン事件の被害者のごとくディオニュソスの格好の餌食となるのである(カミーユが数々の容疑を認めるように、ダイガの移動は、偶然を肯定することによって表現される)。

ドゥニがダイガについて、「ダイガは強い女です。自分を守れる女です。そう、連続殺人事件の被害者とは正反対のタイプです。そして、まっすぐな所とアンモラルな所をもった人間。つまり独特の基準をもっているんです」と述べた文言には、そういった意味合いが込められている。「独特の基準」とは、ドゥルーズの概念である「カオスモス」だろう。

監督 クレール・ドゥニ
製作 1994年(フランス)

*参考文献

『クレール・ドゥニ監督インタビュー』パンフレット

フードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』世界の名著 46 中央公論社

ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』上・下 河出文庫

檜垣立哉『ドゥルーズ入門』ちくま新書

千葉雅也『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出文庫

千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書

千葉雅也 のnoteの記事から、『「意味」について 1・2』『「様子を見る」ことと「複雑なネットワーク」』『自由にしゃべるときと音声入力』『芸術作品とは解けない問題である』『小説をゼロ度から考える』など。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?