何でもは知らないわよ。知ってることだけ。【考察】
こんにちは。タツミです。
noteへは初投稿となります。
ブログとは勝手が違い、戸惑うところはありますが気ままに描きつつ、だんだんと慣れていきたいと思います。
最近は就活を始めたと思ったら、なんとなく運の巡り合わせでご縁があり、開始15日で就活を終了してしまいました。
これで2回目の就活挫折です。
皆さんは真似しないでくださいね笑
羽川翼、という哲学者
さて、今回は私が大好きな言葉の一つについて改めて考えてみました。
「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」
ご存知の方も多いのではないでしょうか?
これは西尾維新・著の「物語シリーズ」のなかのキャラクター、羽川 翼というキャラのアイデンティティともいえる台詞の一つです。
博識キャラとして知られる羽川が持ち前の知識で主人公である暦に何かしらの示唆を与えた時に、尽く暦はこう投げかけます。
「お前はなんでも知ってるな。」
それに対する返答がこのセリフ
「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」
私は初めてこのセリフに触れた時、全く意味がわかりませんでした(笑)
「何を言っているんだろうこの人は?どんな哲学?」
これが正直な感想です。頭の中ははてなだらけ。
この哲学者・羽川翼に私は何年も向き合ってきました。
いや、常に意識していたわけではありませんが、この言葉の意味をあらゆる場面で考えてきました。
私自身、心理学という哲学の一端に触れ、様々な本を読み知識を蓄えることでようやく最近では意味をつかめてきたような気がします。
それからはこの言葉を積極的に使いたいなあなんて、機を伺っています笑
知識をひけらかしはしませんが、公開はしていきます。
閑話休題。
では、一緒に考えていきましょう。
(あくまで個人の見解なので優しく受け止めてくださいね。)
人は自分の世界しか見ていない
いきなり結論に入ります。この言葉から羽川さんが言いたいことは、
「人は自分の世界しか見ていない。だから、私が知っていることは私が経験したことだけであってそれ以外のことは全然知らない。私の経験をもとに話しているだけで本当のことはどうかわからないんだよ。」
ということではないかと思います。
・自分が過去に触れてきたもの
・過去に憧れてきたもの
・過去に調べてきたもの
それらが経験として、知として取り入れられていく。
本人の「知」として、まさに「血と肉になって」取り入れられうるものを「知っていること」というのではないでしょうか。
だけど、僕たちは世の中にある全てのものを、全ての現象を実体験したわけではありません。
もちろん、書籍などによって追体験できるものはあるが、それはあくまで言葉でしかない。
知識としては持っていても、それがどんな匂いで、どんな感覚で、どういうふうに感じたかを全て知っているわけではないんです。
どんなに博識だとしても、例えば自らが存在する前の過去や未来について「全て」を知ることは不可能。
その意味で「何でも知っている」ということはあり得ないのですよね。
あくまであなたが見ているのは、知っているのはあなただけの世界にとどま理続けるということです。
あなたの世界は「拡大」させることはできても捨てることはできない。
何かを判断する時もそれは「あなたの世界」から行わなければならないのです。だから、あなたが知りうることはあくまであなたが知っていることだけだし、私が知っているのは、あなたに知識として提供できるのは私が知っていることだけ。
こういう意図なのではないかと思うのです。
自覚している人は少ない
「無知の知」という、古代の哲学者ソクラテスの発した言葉があります。
簡単にいうと、「自分があらゆることに対して無知であると自覚しているかどうか」ということです。
何かのプロフェッショナルであっても全てを知っていることは不可能です。
全ての人に知らないことはある。
にもかかわらず、それを自覚している人は少ないです。。自分の考えていること、知っていることが全てだと自覚している人はなかなかいないのが現実です。
まるで猫に騙されたが如く、目の前のことしか見えていない。
だから、無知の知を知らない人に「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」と答えても「?」と不思議がられ、敬遠されるのがオチです。
さらにたちの悪いのが、「無知の知の精神で生きている」と言いながらも他人に意気揚々と知識自慢している場合です。
無知の知で生きているのであれば、おいそれと他人に正解など示すことはできないはずです。(ちなみに過去の自分のことだったりします。)
なぜなら、それは主観的な意見の一つに過ぎないからです。正解を示すときは、せめて、「これは一意見なんだが」と謙虚な姿勢で話したほうがいいと感じます。
日本人はよく謙虚だと言われますが、この点で言えば全く同意できないです笑
「何でも知っている」人と普通の人の違い
では「何でも知っている」人と普通の人の違いは何なのか?
これは「触れている世界の大きさが違うこと」だと思います。
知識の範囲が円で表されるとしましょう。
半径10cmの円を持つ普通の人とその円を内包する半径20cmの円を持つ「何でも知っている」人を比べたときに「何でも知っている人」があらゆる質問に答えられるのはあたりまえですよね。
A:普通の人
B:なんでも知っている人
なぜなら、「何でも知っている人」は「普通の人」が知っている範囲はもちろん「普通の人」が触れていない情報にも触れており、考えた経験があるからです。
持っている価値観や思考の深さが全く違うのです。
もちろん「何でも知っている人」が最初からこうだったわけではありません。生まれた頃から20cmの円を持っていたわけではありません。
ただ世界の拡大スピードが他人より早かっただけです。
本を読んだり、レールから外れた体験をしたがために心の成長や経験の密度が違った。より広い世界を「知識」として取り入れたがために、「普通の人」より多くの価値観を受け入れ、より多くの視点から物事を観れるように
なったのです。
これが「何でも知っている」人の正体です。
つまり、私たちは自分次第で誰でも羽川翼になれるということです。
ここで一つ注意しておきたいのが、「無知の知」を常に忘れないことです。
自分が全てを知ったと思った瞬間に世界の拡大は止まります。
なぜなら、本人がこれ以上新しいことに触れようとしないからです。
挑戦しないからです。
機知に富んでいるのに既知にしか触れず、基地に篭ることを吉とする。
そんな生活では吉というより凶です。
閑話休題。
あなたはどうする?
よくよく考えれば、facebookの始祖マークザッカーバーグも「Stay hungry, Stay foolish」と言っています。
「常に私たちは空腹だと理解しろ、自分が愚かだと自覚して、そして新しい知識を取り入れ続けろ」と言っているのです。
もちろんこれは強制されたものではありません。あくまで人生の中の一つの「選択」です。
自らが無知と知ったとき、あなたはどうしますか?
・さらなる知識を求めるか
・現状で満足するのか。
「何でも知っている」羽川翼に憧れ続けるか
「食欲」を満たそうとドアを叩くか
行動するかはいつでもあなた次第です。
さてさて、ここまで書いてきましたがいかがだったでしょうか?
本noteでは私が個人的に考えたこと、学びになったことをシェアしつつ、思いのままに語っていこうと思います。
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