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これほどまでに「ありのまま」から遠ざかっていたのか

この数日は「記事を書く」と決めて手を動かす時間を意図的に多くしている。

今までは家やカフェのデスクの前に居座って、エンジニアとしての仕事の合間に記事を書くようにしていたのが、

「場所にとらわれる必要ないんじゃね?」っていうことにハッと気づいてからは手を替え品を替え、いろんな形で記事を書くようにしている。

今書いている記事はテンションが乗り切った深夜25時に、カフェからパソコンでお送りしている記事。

多分深夜テンションで文体はメチャクチャになるだろうから、アップロードの前に少し編集を加えるかもしれない。

そちらは未来の自分に任せておこう。

記事を書くという話だった。

僕がNoteにアップロードするときは、短いコラムの記事と、ちょっと長めの記事を意図的に分けて書いている。

今までの長い記事はそのままに、短い記事はマガジンに入れてより気軽に読んでもらうための日記みたいなイメージで置いているのだ。

理由は様々あるのだけれど、一番は長文の記事だと5000文字書いてしまったり3000文字くらいで書き終わったりと、分量がまちまちだからだ。

さらに、僕はどうも文章を書くとなるとお堅くなってしまうのが癖として抜けきっていないらしい。

となると、人によってはいきなり長文記事を読もうとするとちょっときついかもしれない。

でももっと気軽に僕の考えに触れてもらいたい。そんな思いで、意図的に分けるようにしている。

と言うわけで、ここまで読んでいて既に辛い場合は、マガジンから読んでほしい。何事も小さなことから一歩ずつっていうし、Noteにおいてもそれでお願いします。

マガジンはこちらのリンクからでもいけます。お気軽にどうぞ!

文章量を変えながら文章を書いていると、時にうまく行ったり、あるいは全然書けなかったり、いろんなことに気づく。

例えば、自分はコラムチックな形式にとらわれないものだったら、スルスルーっと30分くらいで書くことができることに最近気づいた。

いつものようにカタカタとタイピングしているときにパッと天啓が降りてきたかのように「あ、これ得意かもな」と認識したのだ。

不思議な感覚なので、うまく言葉にできない。
本当に小さな核心みたいなものだ。


けど、確かに存在して時々意識の中に落ちてくる。そしてそれは大体調子がいい時だ。

歯車がカチッとうまく噛み合って、自分を覆い隠していた鎧を壊していく。

今回は、文章を書くことは簡単にはできないと思っていた「当たり前」の鎧が剥がれていった。また一歩「ありのまま」への前進だ。

何でうまくハマったのかなあ?自己分析には傾向と対策を欠かせないので少し考えてみる。変えたのは文章量。

文章量に連動して書く時間も減る。うーん、まだ微妙にわからない。

どう言う思いでコラムを書いているんだ?自分の中に問い合わせてみると、こんな答えが返ってきた。

あらかじめ「短く端的に」と決めてあるので、それほど細かい部分を気にせずに出してしまえるんじゃないか。最低限主張が伝わればいい。なんなら伝わらなくても楽しんでもらえればいい。

だそう。

今の自分はYoutubeで言うところのサブチャンネルみたいなイメージで気軽に捉えているのかもしれない。

だから想いも文章に乗せられるし、達成感もあるしで、意外とコラムの自分が好きになれている。

今までは、どちらかと言うと「記事として形にする」ことの方が優先度が高かった。「何か学びになることを盛り込めたらいいな」とか「これってしっかり伝わるのかな?」と考えて手を止めることが何回もあった。

言葉にこだわりをもっているからこそ、変なプライドみたいなものが記事の中に混じり込んでいたんだと思う。当然、意識しないでもそのプライドみたいなものは文章に表れる。

だから記事を書いても、読み返した時になんか本音っぽくないものが混じっている気がして。下書きにしたままお蔵入りにした記事もたくさんあった。

特に、見出しと見出しの間のつなぎ。なんか面白いこと言おうとしてるな感を強く感じるんだ、これが。。

悪いことにそう言う時に限って感情描写が少なかったりして、なんだかパサパサのご飯を食べているみたいにビミョーな気持ちになってしまうのだ。

思っていることは確かにあるのに。伝わらない。何なら結局記事にもならず星のように消えてしまうこともある。

さらに書いている側も読んでいる側もちょっと違和感を感じて終わる。
すごく悲しいですよね。

そうだった。ブログに何度も挫折した時も変に形作ろうとして、自分でありのままで書く」ことのハードルを上げてしまっていた。

人は言い訳が得意だから、一度ハードルを上げてしまうと、なんやかんや理由をつけてハードルを上げたままにする。特に僕は理由づけ職人で、完璧でないとすぐに目を逸らしたがってしまっていた。

そうか、時間が経った今も悩みは変わらず残ったままだったんだ。

なんてこった!!ボトルネックは今も昔も同じだった。
時間ばっかりが過ぎるだけで根本は変わっていなかった。

「ありのまま」でいたつもりが見当違いの方向で、発信活動を続けていたんだ。

それに気づいてから改善するため、何とか短いコラムの本格的な導入に漕ぎ着けた。今の所は特にトラブルもないし、変に考えすぎないし、キリのいいスタートだと思う。

いいじゃないか。自分にしてはいい感じで続けられそうな気がする。ついでに長文も書き進める習慣もつけられれば一石二鳥。

ようやく発信に少しだけ方向性ができてきた気がする。
ずっと続けた先に何が見えるかは、ちょっと先のお楽しみだ。

分量の他にも書くスタイルを変化させている。「だ・である」調で書いたり、「です・ます」調にしてみたり、あるいは今みたいに両方を混ぜてみたり。体言止め多めに書いてみるというのもやってみた。

世の中に出すまでは「こんな書き方してもいいのかな?」と不安がよぎることも多かった。でも実際舞台に上げてみると、なんだか開き直った気持ちで、まあいいや〜ってなることが増えたように思う。

いや、ここ最近は確かに増えた。

記事を書くことに慣れたのもあるし、それ以上に「書くこと」が「ありのままの自分」として自分自身で認められ始めたんじゃないか。そう感じる。

舞台に上げてしまったらあとは流れに任せて演技してもらうだけだ。
そうして、僕の「ありのまま」が踊る舞台を見にきてくれた人が、何かしら演技を気に入って頻繁に見にきてくれるようになればいいな。

それがひとまずの、理想の未来だ。


皆さんのお気持ちを、こっそり置いていっていただければ。小さな幸せ、これからも皆さんに与えます。