2年の学生M-1、冬学

ギャン泣きしたことで、オーディションの悔しさはあまり尾を引かなかった。
とは言ってもずっと悔しかったし、絶対に芸会本番は見てろよって気持ちだった。だけどそれとともに本当にこの実力の自分たちが芸会で勝てるのか不安で不安でしかたなかった。

オーディションが終わるとすぐに冬学、部長として先輩を送り出すライブ。絶対的に成功させなくてはいけなかった。このライブで安心して引退してもらいたい。とともに先輩から吸収できる最後のライブ。学びながら6期を倒すのがテーマになっていた。
学外ライブはお金をもらって遠くに来てもらう分、お客さんにどういうライブを提供するか、すごくライブ作りの初心に戻れる。特にこの冬学は浅草の5656会館と言うところでやるので、料金も少し高ければ、八王子の人はより遠出になる。この冬学はそういう面でもお客さんが大満足で帰れるライブを作る必要があった。

初ネタ見せ前日ネタを練っても練っても、完成しない。オーディションの敗北、それまでの外ライブでの経験がこんなネタをライブに出すわけにはいかないと自分たちがよりストッパーをかけてしまっていた。
朝まで考えて納得できず、一旦解散後すぐにコメダに集まって題材から一から考えた。完成したのはネタ見せの1時間前だった。

初ネタ見せはトリッキーにも中野市民センターの和室だった。このときのネタ見せは結構芸会オーディションでやったネタを持ってくるコンビが多かったイメージ。
7期は誰一人同じネタを持ってきてないことが切羽詰まっていることと、この冬の本気度を感じてなんか変だけど、変だけどゾクゾクした。

ネタ見せはまぁウケたと思う。自分のコアなワードとか偏見つっこみみたいな。1年生の時から先輩たちに良さとして言われてきたことを詰め込んだネタになった。
このときのネタは「便利屋」かな。「やりたいことが一つにびしっ!と決まりました」とフッて「便利屋」というフリボケからスタートさせてた。この当時はしゃべくりとコント漫才が40:60くらいの割合の漫才。徐々に徐々にコント漫才の割合が多くなっていってる。

ネタ見せが終わって、ライブ作りもいろいろな面で冬学は盛んになる。御招待状班も集大成のライブに向けて、熱くなるし、ネタだって制作物だって映像だって、すべてに最後のライブっていうのがのしかかる。
加えて、学外ライブっていうのはやっぱりやることが多い、特に今回は浅草。やったこともないし、何が必要か、どんなことが起きるのかも予測がつかない。けど、予想外でしたなんて言い訳をして良いわけがない。しかも遠いため搬入ミスも取り返しがつかないことになる。
常に頭に入れてやらなきゃいけないことがたくさんあった。

この冬学、なんでかは忘れたけど、2日目のゲネで大学の教室を取ることができなかった。異例の加住の和室での開催。僕ら47期二役は割とミスをミスと見せない能力に長けていたと思うけど、こればかりは誰がどう見てものミスだった。今でも本当に反省している。創大祭も台風の影響でゲネがきっかけ確認だけになってしまったこともあったが、これは明らかに僕らのミスだった。今現在最悪加住でも出来る感覚でいるなら改めて欲しい。原則妥協しちゃいけない。臨機応変という言葉は、滅多に使っていい言葉では本来無いから。


冬学の話は少し置いといて

12月の上旬、正直日数は全然覚えてないので、12月の頭だったと思う。部会前の5コマとかにローソン前がすごい賑わっていた。よくよく聞いたらこの日学生M-1の動画予選の結果発表だったらしい。らしいというのは僕は本当に覚えてなかった。予選動画提出期間に相方とどうする?って話になった時に、僕たちには本当にウケているネタが無かった。前期もやってないし創大祭まででは外ライブでも学内でもスベるかほんとちょいウケしかなかったから。やけくそになって「まぁ1番マシな1年の時の冬学の漫才でいいんじゃね?」と言って、全部相方に任せてた。

言った通り1年冬学、コンビで再出発した一発目のライブが1番その時点でマシだった。当時異例の僕らの組み直しは、見てる先輩同期からすると視線は冷ややかだった。軽蔑してるわけじゃ無い人も居ただろうけど、そういう人もどう見ていいのかわからないという感じ。
初ネタ見せも中間もゲネも通常ネタ見せも1笑いも起こらなかった。2人とも精神がだいぶやられる期間だったと思う。それでも毎日2人で先輩の家に行ってネタねって、すべって、それでもネタ練り行ってって感じで、本番ギリギリまで練りまくっていざ本番最悪の香盤から5位を取った。その時は2人で喜べたしざまぁみろって思ったのを覚えてる。
そこから徐々に芸会や同期ライブを通して認めてもらい出してた感じ。まぁ前期で吹っ飛んだけど。

ってな感じで1年冬学「サンタクロース」を提出してたから、記憶の片隅にもなかった学生M-1。ざわざわしているローソン前を横目にいち早く部会教室に行くと、相方が走ってきた。今まで見たことない表情で。すると第一声「通ってたぞ!!学生M-1!」

正直よくわからなかった。ただ相方の喜びの熱に押されてだんだん状況がわかって、運営に提出する用のコンビ写真を撮って、そのあと、生まれて初めてコンビでハイタッチした。だいぶ舞い上がっていた。2人とも。
どうやら2個上の4年生ダイソンウェイパー(現ウィスキーカノン)も上がっていた。
survival Stageではなく頭からSemi-Final Stageに。

その日一日中うかれていた相方は、漫才師全員に自分から結果を聞いて、そのあと通ったことを報告するという、天狗初級の行動に出ていた。

僕は他の人に言うのはなんか気が引けたので、チームにだけ報告した。チームMOTHERの2組は心から喜んでくれたし、冬への希望になったと言ってくれた。
よし、学生M-1でかまして、芸会への足掛かりにしよう。

当日のネタ選びは迷ったけど、「墓参り」を芸会に残しておきたいというのは2人の総意で、となると消去法で「ヒッチハイク」だった。一応final用に「西遊記」を。
学生M-1は4分尺。いつもタイムオーバーしがちな僕らからしたら都合が良かった。前日には先輩方に手伝ってもらいながら、元のヒッチハイクにボケを足して修正して練習を重ねた。

学生M-1当日、初めて踏み込む早稲田のキャンパスに怖気付いたり、他のファイナリストに怖気付いたり、会場の設備に怖気付いたりしてた。

学生M-1では漫才の前にコンビ紹介のところで袖から2人で無音で何かふざけてから登場して漫才というストロングスタイルだった。
トップバッターだった雲丹離陸(IOK轡田さんと大野くん)は何してたか忘れたけど、その次のキラーマジックがダブルパチンコをやって馬鹿受けていた。袖まで聞こえるくらいお客が沸いていた。

一個前にそんな爆発をされて、本当に何も用意していなかった僕らは無を作り出した。すべったとかではない、何もなかったに等しい時間を作り出したのだ。ネタに入る。ピンマイクだったためセンターマイクはダミーなのだが、一応高さを調整しようとした。全然動かないマイク。それに呼応して、ピンマイクがガサガサと音を拾う。つかみしっかり振って満を辞して発したツッコミは会場をすっと通り抜けた。最悪の最悪に次ぐ最悪なスタート。あとは背中を流れていく滝のような汗以外覚えていない。

僕らだけ500満点中300点台だった。しっかり最下位だった。ステージ上ではわずかに振り絞った力で悔しさをエンターテインメントにしようとしていた。ただあの時のラリー遠田と新道竜巳の顔は一生忘れることはないだろう。いつかぶっ飛ばしてやる。

Semi-Finalステージが終わり、ファイナルステージに向けて、場転が行われている時僕はそそくさと楽屋に帰っていた。相方は先輩ダイソンを見ていくと言って残っていたが、僕はたとえ先輩とはいえ今の心境で輝かしいステージを見ることはとても出来なかった。

楽屋には僕と雲丹離陸の2人と駒込さん(現グロス)の4人だけだった。そこで轡田さんと少しお話しさせてもらえるようになり、後の主催ライブへと繋がりはするんだけど、これを骨折り損のくたびれ儲けというやつなのだろうか、違うのだろうか。
とりあえず、やっとの思いで八王子まで帰る体力だけあった。この時ばかりは悔しさが通り越して涙も出なかった。ただただ虚空を眺めて、家まで帰った。Twitterを見るとダイソンウェイパーは優勝していた。現役を差し置いて、みんなダイソンウェイパーの優勝に称賛を浴びせた。僕らは出ていなかったかのように。今でもダイソンだけ出ていたかのようにツイートしたやつを一人一人覚えている。

ここから僕らの歯車は大きく狂うことになる。

冬学本番、冗談抜きでみんながウケる中、満を辞して初めてトリを務めた僕らだけ、すべった。
いいのか悪いのか、冬学というものは終わるとすごくよかったライブ、達成感のあるライブになりがちであり、それはこの時も例外ではなかった。他のみんなは達成感や多幸感に包まれた顔で6期を送り出し、八王子に帰りながら打ち上げにウキウキで向かっているように見えた。
ポツンと最後尾に自分が置いていかれているような気がして、苦しくて苦しくて仕方がなかった。

その日の打ち上げ僕は、46期への別れの悲しみを混ぜながら、悔しさに包まれ人目を気にせず大声で泣いた。
あの時せっかくの引退の打ち上げなのに、僕を多くの6期が入れ替わり立ち替わりで励ましてくれたことは今でも感謝している。
「大丈夫。絶対冬勝てる」そういう言葉だけが唯一の救いだった。

この冬から僕は稀に見るほどの暗黒期に突入する。

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