「現存しない未来」への不安で、私の「今」を侵食させないぞ~!
訳の分からないタイトルになってしまったけれど、ここ数年「不安を手放すなんてできない」と思っていた。
この先、自分はどうなるのだろう~と考え出すとキリがない。
どうして「不安」に思うのか~
いろんな要因はあったけれど、不安の原因が「お金」にあるとしたなら、いったい、いくらあったら自分は「不安」を感じないのだろうか。
そんなことも考えてみた。
でも結局、仮に億単位のお金があっても、「不安」が自分の中にある限り、「不安」を解消することは出来ないことが分かった。
近頃、そこから脱出しつつある。
そんな時に出会ったのが、この一節だ。
この文言(もんごん)が掲載されてい文章には「持続可能性とは」というサブタイトルがつけられている。
「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学ぶ」というマハトマ・ガンジーの言葉を「解説する文章」として、竹下節子氏が自身の言葉として書いている。
私はこの一節を読んで「将来に対する不安」というものが、いかに根拠がないのか、そんな思いになった。
確かに、考えてみたら、今の時点で、「明日」つまり未来は、現存していない。
まだ「現存していない」ことに不安を感じてどうなるというのか~。
「現存しない」将来のためではなく、「明日死ぬかもしれない」という思いで「今を生きる」ことの大切さを、改めて私は思った。
竹下節子氏のこと
竹下節子氏は、フランス在住で多くの著書を書かれててる「評論家」であり、室内楽アンサンブルを主催している「バロック音楽奏者」でもある。
私が、彼女の著書を初めて読んだのは、3年ぐらい前だった。
たまたま「時間つぶし」で入った書店で「女のキリスト教史」(ちくま新書)という本が眼にとまり購入した。
私からすると「日本人が誰も書かなかったようなこと」を書いている。
こんなことを書く日本人がいるんだ~
そんな感じだった。
この本を読んで、日本の「女性運動」(ウーマンリブ)に対して、自分が、ずーっとモヤモヤとした「違和感」を何故、感じてきたのか、それを説明してもらえたように「スッキリした感じ」を覚えた。
それ以来、購入したり、図書館を巡ったりしながら、竹下氏の本を読み漁っている。
彼女の「的」を得た「鋭い文章」は、迷いを吹き飛ばしてくれる。
さらに私は、日ごろから彼女の著書を読んでは、その中から「グッと来た言葉」を拾い集め、カードに書き溜めている。
3年ぶりの「講演会」
そんな竹下氏が、3年ぶりに来日し「講演会」をすることを知った私は、ワクワクしながら、会場に出かけて行った。
実際にお会いし、ご本人のお話を聞き、間違いなく「私が読んだ本」を書いた人なのだと、当然だけれど実感した。
彼女の口から出る言葉に「あ~、あの本に書いてあったことだ~」とか、思い巡らしながら、お話を聞いた。
前記引用した文章は、その会場で購入した「カトリック生活 11月号」に掲載されていた。竹下氏は、この月刊誌に「カトリック・サプリ」というコラムを連載している。
私はこの日、彼女がアンサンブルでギター演奏しているCDも購入し、サインをして頂いた。(タイトルの写真がそうです。)
掲示板の「返信」は、保存してある~
私は、彼女の「書籍」だけでなく、「ブログ」も読んでいる。
時々、専門的過ぎて難しく、理解できない内容の時もあるけれど、とても勉強になる。
フランス在住の彼女の持っている情報は、日本では得られないものが多くて貴重だ。それが、日本語で読めるということが、大変ありがたい。
竹下氏のサイトの「掲示板」に書き込みをすると、丁寧にお返事を下さったりする。
竹下氏は、自宅で「ピアノ教室」も主催していて、フランスの子どもたちにピアノを教えている。
今年、久しぶりに「ピアノの発表会」を開催したことがブログに書かれていて、それを読んだ私は、思わず「掲示板」にコメントをした。
「フランスの子ども達は、どんなピアノ教本を使っているのか」また、「発表会でフランスの子ども達は、どんな曲を弾くのか」質問を書きこんだ。
すると、竹下氏から、長文の丁寧な返信を頂いた。
フランスの子ども達も、日本と同様に「チェルニーの練習曲」は使っていて、特に左右の練習がバランスよくできるop821をレッスンでは使用するとか、発表会では「エリック・サティの曲」は人気だけれど、日本の発表会だったら誰かが必ず弾く、ランゲの「花の歌」とかは、まったく知られていないとか~。
(実際には、もっといろいろ具体的に詳しく、お返事を下さったけれど、ここでは割愛します。)
この返信が、私には、とても貴重で、「コピペ」して、別な場所に保存した。
本当の「持続可能」とは何だろう~
「未来」が現存しないのであれば、「今」は何のためにあるのだろう。
その「今を生きる」って、たぶん、今いる現状の中で「最善のものを選び取っていくこと」だと私は思う。
どうにもならない状況の中で、人は藻掻くけれど、それでも目の前にあることを淡々とこなしながら、一日を終わらせるしかない。
「今こうしないと、将来こうなってしまう~」とか、「こうならないために~」というような「不安」から発生するのではなく、未来のために行うことが、最善を選び取った自分の中にある「希望」であるべきだ。
竹下氏が講演会の中で
「今自分にできることの一つに『子どもたちにピアノを教える』ということがあって、それが何か将来につながる、そう思って小さなことを積み上げていくしかない」というような事を話されていた。
ホント、その通りだ。
それぞれの人が、それぞれの場所で、どんなに些細なことでも、最善を選び取りながら、一日一日をつなげることで「持続の可能性」が生まれる、そんな気がしている。
私が思っていることは、最近、耳にタコができるぐらいに言われている「持続可能な社会」をつくることとは、ちょっと違う。
社会の一員として何ができるかということではなく、もっと個人的部分で、自分自身に向かって「持続の可能性」を生み出すことが目的なのだ。
「現存」しない「明日」が「今ここ」の生活の質を侵食してはならない。
ちょっと気を緩めると「不安に覆われてしまう今の私」には、ピッタリくる言葉だ。
「現存していない未来」への不安を思い、「今を生きること」を躊躇するのはやめよう。
今、私にできる最善をやろう!
そして、竹下氏がフランスに戻られてから更新された「ブログ」には、このように書かれていた。
確かに、イノシシのニュースやってたな~。
日本、のんびりしてて丈夫かな~・・・笑っちゃダメだけど、ちょっと笑えた。
最後まで、お読みいただき、ありがとうございました(*^-^*)