見出し画像

60歳で、初めて「株」を買った、「ファザコン娘」の「ファミリーヒストリー」


30年ぐらい前、「株は売らないで!」という、「母」の強い言葉に耳を貸すことなく、「父」は、事情があって、持っていた「株」を全部、売ってしまった。

手放した「株」は、父がずっと勤めていた会社の「株」だった。
それまで、「株主」として、父は、会社の「株主総会」にも、ずっと出席していた。

そして、その数日後、手放した「株」の「株価」が、「高騰」した。

この「話」を、父が亡くなった後も、

母から、しつこいぐらい、何回も聞かされた。

イヤになるぐらい~!!

「あの時、手放した株を、取り戻せばいいんでしょ。」

私は母に言い放ち、「持つためだけ」に「株」を買うことにした。

**********

父は、戦前から、石川島播磨重工(現 IHI)に勤めていた。

1960年に「播磨造船」と合併する前の「東京石川島」の時代からだ。

画像1


戦前、会社は、「月島」にあった。(現住所:東京都中央区佃)

画像3


「ファミリーヒストリー」としての「東京石川島」


「父の家族」は、戦前、現在の「東京都江東区」に住んでいた。

父は、「子どものは、よく隅田川で泳いで遊んだ」と話していた。

そんな父は、「長男」で、若い時から「一家の大黒柱」だった。

本当は、「銀行」に就職することを願っていた父だったが、健康診断で、以前患った「胸の病気」の事が引っ掛かり、叶わなかった。

そして、「月島」にあった「東京石川島造船」に入社した。


父が育ったこの「地域」は、ご存じの通り、1945年3月の「東京大空襲」で、「焼け野原」となった場所だ。

父の家族も、この当時、住んでいた家を、焼かれてた。

「空襲」で焼け出された父と、父の家族、つまり私の「おじいちゃん」や「おばあちゃん」、そして「幼かった弟たち」(叔父たち)は、父の勤め先だった、焼け残った「東京石川島」の建物に逃げ、そこで数日を過ごした。

逃げている時は、家族バラバラで、逃げたけれど、「会社」が焼け残ったため、「父の家族」は、みんなそこを目指し、再会することができた。

「東京大空襲」は、アメリカが、「民間人」をターゲットにした攻撃だったため、当時、「軍事工場」だったにも関わらず、「東京石川島」の工場は、焼け残ったのだ。


当時、この「空襲」で、一緒に逃げていた、父の「14歳の弟」だけが、亡くなった。

3月の深夜、「オーバー」を着たまま、父は、「隅田川」に飛び込んだ。

その時、「弟」とはぐれた。

私は、生前の父に、こう尋ねたことがある。


「遺体」を確認したわけではないのに、
どうして、死んだと思ったの?

父は、こう答えた。

家は、空襲で焼けて無くなったけれど、
「月島の会社」は、焼け残った。
だから、もし生きていたら、
絶対に、「会社」に訪ねてきたはずだ。

でも、何日経っても、来なかった。 

父にとって、月島にあった「東京石川島」は、
「弟の死」を確信した場所でもあったのだ。

「父」と「レッドパージ」と「私」


終戦後も、父は「東京石川島」に勤めた。

そして、会社の「労働組合の幹部」をやっていた。

まだ、「GHQ」の占領下にあったこの頃だ。

組合の「幹部」だった父は、
今でいうと、社内の「働き方改革」のため、
当時の社長だった「土光敏夫氏」とかなりやり合ったと聞いている。

実家を整理した時、土光さんとの「一問一答」の「報告書」とか、
当時の「労働組合の資料」が、沢山でてきた。

画像4
父の遺品にあった、資料
画像5




昭和25年(1950年)の「レッド・パージ」と言っても、殆どの人が、知らない。

「教科書」には、載っていても、「学校の授業」では、殆ど扱わない。

私自身も、ちゃんとした「説明」は、出来ない。

しかし、父は、「労働組合の幹部」ということで、かなりの影響を受けた。

また、母からも、「レッド・パージ」は、「大変だった」と、なんとなく聞いている。

だから、どうしても「レッド・パージ」という出来事を、我が家の「ファミリーヒストリー」からは、外せない。


「レッドパージ」の後、「名古屋営業所」を開設するため、
父は、「名古屋」に異動になった。

たぶん、事実上の「左遷」だと思う~
(私個人の感想ですが…)

なので、

東京生まれ・東京育ちの「母」が、「父」と結婚して、「新婚時代」を過ごしたのは、「名古屋」だった。

そして、私の「出生地」も、「名古屋」だ。

「親戚」がいる訳でもない、何の所縁もない「場所」で、私は、生まれている。

「レッド・パージ」が無ければ、私は「別な場所」で生まれていたのかもしれない~



母の話だと、この頃、社長(土光敏夫さん)が、「名古屋」に来たときは、
必ず、「名古屋駅」まで、父は、呼びつけられていたらしい。

父は、10年以上の歳月を「名古屋」で勤務し、「東京オリンピック」が終わった翌年(昭和40年)、東京の本社(大手町)に戻った。

すでに「播磨造船」と合併し、「石川島播磨重工業」となったこの会社に、定年まで勤めた。

画像5


私の「子ども時代」と「石川島播磨重工」


思い返せば、

子どもの時、
サンタさんからもらった

ピーターパンの「絵」が付いた
「おもちゃの赤いピアノ」も、

お気に入りの「犬のぬいぐるみ」も、

父が、「会社」で働いて得た「お給料」があってこその
「クリスマスプレゼント」ではないか~


1970年の「大阪万博」や、
会社の「保養所」に、夏休みに行った思い出とか、
母と話していると、
会社がらみの「思い出話」は、尽きない。

画像6
1970年「大阪万博」の「東芝・IHI館」のキーホルダー


小学生の時
「父の日」の宿題で、「父親の顔」と「仕事に関係する物」を絵に描く「課題」が出されたことがあった。

父に、相談すると、仕事の説明をしてくれた。

「コンビナート」とか
「ジェットエンジン」とか
「タービン」とか、

小学生の「女の子」には、訳の分からない「言葉」が出てきた。

画像10

しかも、どれも「灰色」で、
「色取り」の悪い絵を、
描くのが、嫌だった。

父の仕事が、
「お花屋さん」や「ケーキ屋さん」だったらよかったのに~

そんなことを思った事を、今でも覚えている。

画像5


父との「最後」の思い出の「場所」


ある日、私は、仕事で、父が勤めていた「大手町のビル」に行くことがあった。

ところが、いつも、電車に乗ると「神田駅」と「東京駅」の間で、必ず見えていた、ビルの外についていた「石川島播磨重工業」の「縦看板」が、無いことに気づいた。

ネットで、いろいろ調べてみた。

すると、豊洲に「本社」を移転し、
なんか、かっこいい「自社ビル」を建てていた。

画像7



さらに、「空襲」の時、父が、家族と逃げ込んだ「月島の会社」があった場所には、大きなビルが建っていて、「石川島資料館」ができていた。

画像8

私は、HPをプリントして、父に、諸々伝えた。

すると、父は、新しい「IHI本社」に行きたいと言った。


なので、みんなで一緒に、

車で、「月島」と「豊洲」を目指して、出かけた。


定年後、父は

「70代」までは、会社の「OB会」に出掛けたり、
公益法人の「寄付集め」の仕事やら、色々やっていた。

「80代」には、「地元の活動」や、趣味の「詩吟」が、中心の生活だった。

だから、この日は、父にとって久々の「お出かけ」だった。


「月島」の「資料館」(現住所:中央区佃)には、入ってすぐの場所に、若かりし頃の「土光さん」の「大きな写真」が飾ってあった。

そのほかに、「月島」や「越中島」のむかしの様子がわかるような「展示」がされていた。

父も母も、懐かしそうだった。

「展示」をみながら

「この頃は、うちは、まだ名古屋にいたね~」とか、

「土光さんが、ブラジルに出張した時、こんなことがあったね~」とか、

家族で、話が、弾んだ。


この頃は、まだ「豊洲」には、今ほど「ビル」が建っていなかった。

だから、「月島」から「豊洲」に、車で向かう時、「IHIの本社ビル」だけが、ぴょこんと建っていて、遠くからでも、良く見えた。


「豊洲」は、父が「定年退職」の時、「石川島播磨重工」からの「感謝状」を受け取りに行った場所だ。

画像13
以前、豊洲にあった「総合事務所」


出かけた日が、「日曜日」だったため、1階ロビーの「展示ブース」には、入ることができなかった。

けれど、ビルの地下で、「お昼ご飯」を、みんなで食べて、帰ってきた。

それでも、父は、満足そうだった。


「株」の話に戻ると…


様々な「思い出」を振り返りながら、私は「株」を買ったのだ。

そして、何ということか! 

~その途端に、「株価」は暴落した!

「株」を購入したわずか数週間後、「コロナの緊急事態宣言」が発令、

そして!「株価」は、暴落した。

ちょっと待ってから、買えばよかったな~…

「株」って、こうゆうことなのか~、

「素人の私」は、一瞬で学んだ。

そんなことは、
分かっていたよ!

でも、どうしても、思い出いっぱいの「父の会社の株」を「持つためだけ」に買いたかったのだ。

どうせ、手放す気が無いなら、
「株価」が、落ちた時、
もう少し買えば良かったな~

素人ながらに、いろいろ思う…

まっ!イイか~


私と「IHI」のこれから~


自分のお父さんは、「船を作る会社に勤めている」という「認識」を、私は、幼い時から、持っていた。

「石川島播磨重工」は、もともと「造船」の会社だった。

エネルギーや、技術開発の分野も、父の「現役の時代」とは、変わってきている。

父の「遺品」は、殆どが、「IHIのロゴ」が、付いたものが殆ど。
自宅の「鍵」のキーホルダーにしています


ある時、2010年に長旅を終えて、宇宙から帰還した「はやぶさ」の「展示」を、「国際フォーラム」の片隅で、やっていた。

たまたま、通りかかり、覗いてみた。

帰還した「はやぶさ」の「カプセル」の「レプリカ」が展示されていた。

そこに、見慣れた「IHI」の「ロゴ」があった。

スタッフの方に尋ねると、「カプセル」が、大気圏に突入しても「燃えない素材にするために、「IHI」が、開発に携わった事など、説明をしてくれた。

「種子島宇宙センター」からの「ロケット打ち上げ」に、「IHI」が携わっている事は、知っていたけれど、「カプセルのレプリカ」にあった、会社の「ロゴ」を見て、この時、なんだかワクワクした。

「父の時代」とは違う、何か、「未来に向かっているんだ~」そんなワクワク感を感じた。


父は、もういないけれど、「ファミリーヒストリー」の中にある、家族を支えてくれた「企業」と、「株主」として繋がることが、私は、単純かもしれないけれど、嬉しい。

これから、もっと歳を取っていく中で、自分が生きてきた「人生の背景」にある「IHI」という企業に、心を寄せていくと思う。

この記事は、私の「家族のストーリー」として書いています。
史実と、認識が異なる部分もあるかと思いますが、ご容赦ください。

※2024年7月に、この記事は、「タイトル」も含めて、追記、再編集しました。







いいなと思ったら応援しよう!

テレサ
よろしければサポートお願いします! 頂いたサポートは、「刺繍図書館」と「浪江・子どもプロジェクト」の運営に使わせて頂きます! サポート頂けたら、大変助かります。