「東京大空襲」の時、父が持ち出したかった「本」~父から最後に怒られた日
父(既に他界)は、母と違って、「空襲」の話をあまりしなかった。
そんな父が、亡くなる1年ぐらい前に、
「空襲の時、あの”本”だけは、持って逃げれば良かったなぁ~」と言った。
その「本」は、父が、子どもの時に、母方の「伯父さん」から貰った
「日本外史」という本だった。
その「伯父さん」は、「海軍」の軍人で、「戦艦・山城」に乗っていた。
戦艦に乗船中、大砲から落ちて、怪我をし、その後「カリエス」となり、若くして亡くなった。結婚もせず、「子ども」も、いなかった。
私は、持っていた「タブレット」で、検索すると幾つか「戦艦」の写真が出てきた。
父は、私の「タブレット」を奪うように手に取り、どれどれと~見ていた。
そもそも、父が子どもの頃(1930年代)「本」そのものが「貴重」だったと思う。
さらに、家庭の事情で、父は「辞書」を買って貰えなかった。
そんな父にしてみたら、この「本」を貰った時、凄く嬉しかったと思う。
この記事を書きながら、思い出したことがある。
父は、「本」を捨てることを出来ない人だった。
私が、使わなくなった高校の「教科書」を整理して、「紐」で縛って、自宅の庭に出しておくと、
わざわざ「紐」を解き、
そして、読み出し
「この本は、自分が読むから~」と家の中に戻したりしていた。
父に言わせると「いろんなことが書いてある」というのだ。
そりゃそうだよ~「教科書」だからね・・・
「勉強家」では無かった私は、
教科書を「端から端まで」、読んだ記憶はないけれど・・・
「東京大空襲」を生き延びた父にとって、「空襲」のことは、思い出したくもない「最悪の思い出」だ。
でも、この日、父が珍しく「空襲」の事を振り返っていた。
この頃、父は、既に寝たきりとなり、
「車椅子」に座ることも出来ない状態だった。
それなのに、私は、父との時間は、永遠に続くと思っていた。
父が、亡くなるという事を、受け止められなかった私は、
「父は死なない」と、思っていた。
今、思うと、自分は、馬鹿だな~って思う。
この日は、夏の暑い日で、
面会に出かけた私は、
ひらひらした格好??
つまり、ちゃんとした「服装」ではなかった。
私のその「姿」を見て、
私が、部屋に入っていくと、
なんだ~! おまえ!
その恰好は~!!!
と、ベットに横たわる父から、いきなり怒られた。
父は、「服装」には、うるさい人だった。
確かに、その日の私の「格好」は、
ちょっと、だらしがなかったかな~・・・
でも、この時の父の「憤慨」した言葉は、
幼い頃から、私が知っている「父らしさ」と、
娘を思う気持ちと、
色々なものが込められていてた。
「学」が乏しい私は、
「日本外史」という書物を、
この時、初めて知り
どんな「本」なのか、帰宅後、ネット検索してみた。
「漢文体」なのか~
その時点で、手に取ることもなく、現在に至っている。
「翻訳本」も出ているけれど・・・