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超越し律動する間身体性(前編)・・・「わたし」という現象をめぐる考察ノート⑦
0.はじめに
前項では、レヴィナスの他者論から始まり、身体、間身体性、ハビトゥスとのかかわりを見てきた。そこでは、「他者」の超越性を仮定することで、逆説的にそれらの現実的な作用を基礎づけることとなった。
しかし現実の相互作用は、そのような他者性のみで成立しているものではないと考える。相互作用を成立させる、あるいはナラティヴな意味生成を可能とするもう一つの間身体性の様相を、クリステヴァのコーラ概念から見ていくこととしたい。
1.間身体的なコーラ
この論考の第4回の終盤に、ジュリア・クリステヴァが「詩的言語の革命」において展開したコーラ概念について言及した。それはサッカーのプレイヤーがフィールドを見渡したときに感じる他のプレイヤーの息遣いや運動のベクトルであり、即興するジャズミュージシャンたちの共鳴する律動…予持として共有された旋律であり、志向される調和や不協和であり、文字通りのリズム…であった。
クリステヴァが展開したコーラ(khôra)概念は、もともとプラトンの『ティマイオス』において提示された概念である。プラトンはコーラを、イデアと感覚的事物の間に位置する「第三の類」として定位し、あらゆる生成の「容れもの」あるいは「場」として描いた。クリステヴァはこの古代ギリシャの概念を現代的に…欲動の入れ物として…再解釈し、意味生成過程における前言語的な次元を説明する中核的概念として展開した。
クリステヴァの理論的枠組みにおいて、コーラは何よりもまず、言語化される以前の身体的経験の領域として理解される。それは意味の確定に先行する可能性の空間であり、言葉として明確化される前の感覚や情動が集積される場所である。この先行性は、単なる時間的な順序を示すものではない。むしろそれは、言語化や意味化を可能にする条件そのものとしての位置づけを持つ。言い換えれば、コーラは意味生成の可能性の条件であり、同時にその過程において常に「損なわれる」ものとして理解される必要がある。
この先行性は、コーラの本質的な特徴と密接に結びついている。クリステヴァは「詩的言語の革命」において、コーラを「激しく変化しながらも枠をはめられている動性のなかで、欲動とその鬱滞から形成される表現的ではない全体性」(「詩的言語の革命」P16)として定義している。この定義は、コーラの複雑な性質を端的に示しているものだといえる。
それは、構造の枠内に規定されながらも、流動的に運動する構造化された揺らぎである。あるいは身体的・情動的に蓄積された前言語的なエネルギーとしての欲動の装置であり、意味や記号に表象される以前の前象徴的な全体性である。
したがってそれは、<「意味」として停滞すること>と、<表現されることへの抵抗として流動すること>のあいだにある。意味化される可能性を胚胎した豊穣なる全体性なのだ。それはときに「意味」や表現によって表象されるが、そのとき同時に「意味」や表現に吸収されきることなく取りこぼされてしまう「何か」でもあるのだろう。
また時間的性質に関しても、コーラは特異な特徴を示す。それは直線的な時間の流れではなく、むしろ循環的で律動的な時間性なのだ。時間を直線的かつ不可逆的なものにするのは「意味」の介入である。コーラの時間性は、意味化以前の、あるいは意味化を可能にする条件としての時間性であり、それは母の腕に抱かれる乳児にとっての生きられた時間に近い性質なのだろう。この循環的・律動的な時間性は、コーラにおける欲動の充填と放出のリズムと密接に結びついている。
同様に空間的特徴に着目すると、コーラ的空間はユークリッド的な三次元空間とは本質的に異なる性質を持つ。それは包含的かつ融合的な空間性を持ち、明確な境界を持たない流動的な場として特徴づけられる。この空間的特性は、初期の母子関係における空間経験と密接に結びついているとされる。ここでも重要なのは、この空間性が意味化以前の、あるいは意味化を可能にする条件としての性質を持つという点である。
この項の区切りとして、以下の通りメルロ=ポンティを引用しておこう。
「経験は、身体が結局はそのなかに座を占めるようになる客観的な空間の下に、さらに始元的な空間性を啓示してみせ、この空間性は身体の存在そのものと合一しており、客観的空間性も実はこの空間性の外皮にすぎないことを示してくれているのだ」。
2.コーラと身体
コーラの特徴的な性質は、その動的性格にある。それは欲動の容器なのだ。絶えず変化し流動する性質を持ち、身体的な次元においては「社会化された身体という帯域上での身振りと声のはたらき」(「詩的言語の革命」P16)のようなリズムや律動として知覚される。その意味でコーラは、身体性そのものだといえる。前言語的な、表現的ではない全体性。コーラ的な知覚・体験は、それが直接的に意味を指し示すことがない律動であるがゆえに、意味の原初的な形態として身体的な共振によって知覚される。
コーラとは、欲動——すなわち意味以前の名付けられぬエネルギー——が活動する場であり、意味生成に先立つ欲動というエネルギーの充填と放出を可能とする運動性である。意味生成以前であるということは、世界の境界線が存在していないということに等しい。それは液体のように力動のままに流動し、表現として確定されないまま律動的に運動する。
身体とコーラの距離は、レヴィナス的「他者」と身体との距離にちょうど等しいのかもしれない。それは遠すぎず、近すぎることもない「近さ」にあり、同時に皮膚の接触のような直接的接触である。すなわち、反省的に把握可能な「意味」を持たず、ただ表象されないままの知覚可能性として、身体に直接接触する。
これらのような理論的特徴を持つコーラは、日常的な経験において具体的なかたちで現れる。冒頭に記載したサッカーのプレイヤーや即興するジャズミュージシャンたちの場面がその例である。他のプレイヤーの息遣いや運動のベクトル、バンドが共有する音楽的予見は、コーラ的な次元における身体的共鳴の典型的な例といえる。これらの場面では、言語化される以前の共鳴的な知覚が、パフォーマンスの基盤となっている。
それだけではない。母子間の非言語的コミュニケーション。親密な関係における身体的なふれあい。音楽をはじめとした芸術に感応した身体の反応。愛するペットを撫で、抱き上げたときのぬくもり。あるいは熟練したカウンセラーがクライエントにむけるまなざし。
これらは前反省的なレベルで各身体に知覚され、間身体的なレベルで共有される。コーラは、知覚され共有されることによって身体を共鳴させる生理的な律動なのだ。それは液体のように流動する律動である。
そしてコーラの機能は、単なる前言語的な領域の提供にとどまらない。それは意味生成の母胎として極めて重要な機能を果たす。言語化される以前の身体的経験を提供し、意味の可能性を胚胎する場として機能することで、創造的な表現の源泉となる。この意味で、コーラは意味生成の基盤として不可欠な役割を担っている。
このようなコーラ概念の理解は、従来の言語中心的な意味理論を超えて、身体的・情動的な次元からの意味生成プロセスを考察することを可能にする。それは間身体的な相互作用において、まだ生成の過程にある意味が立ち現れ、身体と身体のあいだに共有されるという観点である。
意味生成以前の空間であるコーラは、その循環的な時間的性質と融合的な空間的性質ゆえに、決まったかたちを持たない。ちょうど海に湛えられた海水が波打つように。それは身体と身体のあいだを、あるいは多層的なハビトゥスに構成された一つの身体のなかを、ときに激しく、ときにゆっくりと流れていく。意識に表象化されないままの純然たる知覚または体験として。
それがサッカーのゲームのなかで激しく知覚されたとき、プレイヤーは敵を欺く見事なトリックプレーを成し遂げるかもしれない。コンサートホールのオーケストラが奏でる演奏とともにゆっくりと体験されたとき、そのひとは感動しているのかもしれない。
3.意味生成の母胎
コーラは意味生成以前の体験であると同時に、意味生成の母胎だった。
それはその間身体性において、「意味生成の母胎」たり得るのだろう。コーラは、前言語的な身体的共振から意味や記号が立ち現れてくる場として機能する。そこでは、リズムや声調、身振りといった身体的な律動が、意味の原初的形態を生み出す。この過程は欲動によって駆動され、次第に分節化され記号化されていく。しかし重要なのは、この過程が完全な象徴化には至らず、常に身体性の次元を保持し続けるという点である。
ここでの記号化とは、「その都度『肯定』でありかつ『否定』であるような構造」(同P18)という両義性を持った運動である。つまり言語のような特定の共時的な意味を持たず、どころか既存の意味構造に対する「破壊破」として、「意味」の境界を侵犯する。
「この侵犯が意味実践のあらゆる変容を呼び招いている」。
このようなコーラの「意味」に対する両義性を、クリステヴァはサンボリクとセミオティックという概念を使って語る。
サンボリクの意味作用は、共時的な意味を措定する機能を持つ。それによって、わたしたちが構造として経験するような「社会」が構成される。いいかえれば、それは世界を意味付けるということに他ならない。
このようなサンボリクの意味作用によって、身体は言語体系を内在化し、社会規範への参入…つまり「構造化された構造」としてのハビトゥスの形成…を果たす。このハビトゥスが、身体において多層的に身体図式として形成されることによって、いわゆる「主体」となる。それは、知覚=評価=行動の図式としての身体図式が、現在という時間軸において世界と触れ、それをそこにいる他の身体と共有することで、<世界>が(限定的でありながら)安定して形成されるということになるのだろう。
これに対してセミオティックは、詩において使用される言葉がそうであるように、共時的な意味の構造からはみ出し、揺り動かすように作用する。
「この秩序にひびをいれ、切り刻み、語彙、統辞さらには単語さえも変形し、その下から、声と身振りの差異がもたらしてくれるような欲動を取り出すことによって、享楽が社会とシンボルの秩序を突き抜けて導きいれられる」
セミオティックは、サンボリクが定立する構造化された世界を侵犯する。前述した「その都度『肯定』でありかつ『否定』であるような構造」は、セミオティックの意味作用なのである。
サンボリクは、本質的に「他者」である世界、あるいはコーラを措定し、意味付け、秩序化する。それは(その本質において)定まった形がなく流動する動性であった欲動、あるいはその入れ物としてのコーラを、定まったかたちのものとして定立する。つまりそれらにかたちを与える。
セミオティック——特に「詩的言語」において——もまた、もちろんサンボリクな意味作用に立脚する。しかしそれは「サンボリクをとおして、サンボリクに働きかけ、それらを突き抜け、脅かすものを導きいれる」(同P82)。「音声(音素の集中と反復、脚韻など)とメロディー(抑揚とリズム)の組立て」(同P88)において、サンボリクによる措定を利用しながらも、それを肯定するとともに否定する。すなわち定立の範囲を超えた<意味>を導入することで、定立を侵犯するのだ。
「侵犯の否定性によって定立を砕き潰しながら、定立もまた手放さない」。
それはただの否定ではない。サンボリクに措定された世界に対し、流動性を再導入することなのだ。これをクリステヴァは「渦巻の再開」とも表現した。
意味の措定とその侵犯による弁証法。サンボリクは世界に名をつけ、意味づけることによって<世界>を安定化し、構造を再生産していく。それに対してセミオティックは意味を侵犯することで欲動を招き入れ、意味生成の原初的な場を呼び戻す。セミオティックとサンボリックの絶え間ない往還あるいは同時生起。秩序と混沌が対立しつつ、止揚されて新たな現実を構成する。
「われわれが意味生成という表現でさししめすのは、限界を持たず、決して閉ざされることのないこの産出、言語に向かって、言語のなかで、言語を突き抜けて働く、交換とそれに与するものつまり主体とその制度にむかって、そのなかで、それを突き抜けて働く、欲動の留まることを知らぬこの機能である」
コーラは欲動の容器として機能する。それは循環的な律動性を持ち、液体のように構造の中を流動する性質を持つ。サンボリクやセミオティックのはたらき以前の意味未分化な形態として、サンボリクに意味づけられ、セミオティックに意味を侵犯していく。
そしてわたしたちにとって相互作用とは、サンボリクでもセミオティックでもない、ミニマルな次元にも生起するものであった。それは日常的な会話の中に現れる声色の揺らぎであり、触れ合ったときの体温である。あるいは何気ない表情であり、サッカーや音楽の演奏に際しての互いの息遣いや共鳴である。
クリステヴァが強調するようにコーラは、セミオティックな標識でもサンボリクな意味作用でもない領域である。いいかえればそれは、生きられた身体の(循環的で抱合的な)原初の位相なのだ。意味づけられる前の空間であり、意味が生成される場所である。意味以前の領域であるからこそ、後の「意味」生成やその攪乱を可能にする豊かな土壌。その中を身体が「生きる」ことにより、ときにサンボリクに、あるいはセミオティックに<世界>が立ち現れる。
欲動の容器としてのコーラは、言葉を離れた律動性…心拍、呼吸、体温の変動…を通じて、<世界>を超えた身体の共鳴を可能にする。コーラはそのような、わたしたちの間身体性そのものなのだ。
interlude
ここまでクリステヴァのコーラ概念について、ミニマルで間身体的な体験として記述してきた。文章量も相当になってきたため、いったんここで区切り、ここまでを「前編」とすることにしたい。次回では間身体性としてのコーラについて、より詳細な論考を行っていきたい。