クラフトマンシップ・・・「『わたし』という現象をめぐる考察ノート」用語集④
アメリカの社会学者リチャード・セネットの概念で、著書クラフツマン(2008、日本では絶版)で詳細に論じられています。
クラフトマンシップとは、特定の分野で高度なスキルを獲得し、洗練させることを意味します。それは、いわゆる「一万時間の法則」など、継続的な実践と改善の過程を通じて達成されます。
ただし、それはただの技能ではありません。セネットによれば、それはまず第一に「何かをそれ自体のために上手く行うことへの持続的で基本的な人間の衝動」なのです。それは、外的な報酬ではなく、仕事それ自体に内在する価値を追求する姿勢です。
この「それ自体のために」という動機は、仕事の質を追求する強い原動力となるのです。それは卓越性に向けての衝動と言えるかもしれません。
それゆえに、クラフトマンシップは一時的な努力ではなく、持続的な実践と改善の過程となります。だから一万時間でも耐えられる。なんならいっそ楽しめる。この継続的な取り組みが、技能の深化と洗練をもたらします。
そして技能の習得は単なる反復ではなく、問題解決や創造的思考を含む複雑なプロセスでもあります。
木工職人が木材に鑿を入れようとしていたとします。木材の手触りは、いつも同じとは限りません。妙な節目があったり、あるいはいつもよりも柔らかいと感じることもあるかもしれません。セネットは、それを素材の「抵抗」と呼びます。
そして職人が材料や環境からの抵抗に直面し、それを克服する過程で技能が磨かれ、創造性が育まれるとしています。これは素材や環境との対話なのです。クラフトマンはこのような対話を繰り返すことによって、問題解決能力や創造性を培っていくのです。
この点で、クラフトマンシップは手と頭脳の分離を超越するものだともいえます。技術的な理解と表現力の融合。いいかえれば、これはミニマルセルフであり、ナラティヴセルフでもある身体のはたらきと呼べるでしょう。
からだの動きに視点を向けるのであれば、それは完全なるミニマルセルフ…暗黙知的な能力です。ところが、素材との対話関係…素材の「他者性」に向けた問いかけと傾聴は、まさしくナラティヴセルフのはたらきです。ここで見られる二重性は、わたしたちが考えるハビトゥスの在り様に一致するのではないでしょうか。
常に変化し、抵抗する素材に対し、ミニマルでありナラティヴである関わりを続けることは、クラフトマンシップの実践が、その本質的な部分において単なる反復ではないということを暗示します。それは、微妙な変化や改善を伴う反復的探索なのです。この探索において、クラフトマンは「上手く行う」こと、つまり質の追及を「衝動」として体験します。より良い質の実現を追求し続けること。それはまさにイノベーションの源泉なのです。クラフトマンは、実践の中で直面する困難や制約に創造的に対処することで、新しい解決策や技術を生み出しているのです。
このように持続的に、新しい解決策や技術を生み出し続けることは、クラフトマンシップに拡張性を与え、特定の分野を超えて広く応用可能なものとしているとセネットは考えます。実際に素材との対話において、日常的に変化する状況や新しい課題に適応しているのです。それが全く異なる環境であったとしても、変化への対応能力や課題解決能力などのメタレベルのスキルとして、適応可能性を高めるとセネットは述べています。
ただし筆者自身は、この拡張性について留保付き賛成という立場です。本文で記述したように、ジャズの名演奏家はクラシックやロックに適応できると思います。ただし、それは卓越した演奏家だからこそです。凡庸な奏者であれば、恐らくちぐはぐな演奏しかできないことでしょう。
また、優れたジャズ奏者が、そのことのみをもって、優れた木工職人であるとも思いません。身体化された知性としての直観的洞察や継続的な学習態度、あるいは問題解決能力・自己効力感というレベルで、凡庸な演奏家より早い技術的進歩を果たすかもしれませんが…。そういう意味では、ブルデューのいう「ハビトゥスの移調」と同程度の拡張性かもしれませんね。
そういう意味で、クラフトマンシップ概念の意義のひとつは、それがただの拡張性(移調可能性)ではなく、実践そのもののうちに(材料との対話的関係のなかで)構造を乗り越える可能性が示唆されていることにあると考えています。
また、クラフトマンシップには(社会学者セネットの真骨頂というべきところかもしれませんが)社会的なものとしての側面もあります。クラフトマンシップは個人的な営みであると同時に、コミュニティや伝統と深く結びついています。それは技術の伝承ないしクラフトマンシップの生成という場面です。セネットは、技能の伝承や共有が社会的絆を強化し、世代間の連続性を維持する上で重要だと指摘しています。
そして、そこで質を向上させるということは、その本質が「上手く行う衝動」であるという点から、労働の喜びや自己実現の可能性、さらにはそのひとの尊厳を構成するのです。これは疎外された労働に対する批判的視点であり、同時にリキッドモダニティ以降の社会に対する処方箋たり得る視点なのでしょう。
最後に。クラフトマンシップは、ただ職人の世界のみを射程にした議論ではありません。教師にとっての生徒や、プログラマーにとってのプログラム。そういう意味で、クラフトマンシップはハビトゥスのある種の類型と言えます。それがミニマルかつナラティヴなかたちで身体と社会を変革していく。そういう可能性として、とてつもなく示唆に富んだ理論だと思っています。