霧の中 20
大石純也さんが自殺を図って、翔太さんが医大病院に行き、警察に行き、翌日ついに亡くなったと連絡があった日に、お店の撤退が知らされた。私も仕事がなくなる。ひまわりデパートの高いテナント料が経営を圧迫しているのでO市からは完全に撤退してF市の繁華街に出店することにしたらしい。それってお店の都合。杉野店長も、芳江さんもF市には行けない。大谷さんはまた別のパートを探すしかない。従業員は切り捨てだ。都会のほうが高級惣菜はニーズがあると見たのだ。翔太さんも私も仕事がなくなる。いつか起かもしれない、そう思っていたが、一度に二人に降りかかるとは思いもよらなかった。私たちのガラスの城は壊れるのだろうか。嫌だ、絶対に嫌だ、彼と私のお城だもの、絶対に守りたい。
ミッチの言葉を思い出した。普通の将来を予測できる暮らしができて愛は続けられるのよ。普通って何だろうか。安定して収入があること?公務員みたいに、絶対に解雇とか倒産がないこと?突然死は予測できないでしょ?大手企業は普通なの?正規の社員なら普通なの?臨時やパートは普通じゃないのね。それはそうでしょう、いつ仕事がなくなるかわからないから。日曜日に仕事をしたり、夜仕事をするのは普通じゃないの?家庭を持って子供を育てるのに普通じゃないから?土曜日、日曜日と夜は休めて、将来も安定した仕事をすることが普通で、結婚して家庭を持って子供を育てられるってこと?そうじゃないと、結婚もできず子供も作れないの?普通じゃない人がたくさんいるから、普通の人が普通に生活できているのでしょうに。
ミッチから電話があったのは、翔太さんが葬儀に出かけた直ぐ後だった。ミッチは実家に戻っていた。激痩せをしたミッチが姿を現したとき、トモンから、私とミッチに同時にメールが入った。臨時ニュース、私デモドリしました。何?デモドリ?側にミッチもいるので電話をかけると、昨日F市から引越しして親元に戻ったという。塾の先生とスーパーの補給の仕事は二週間も続けられなかった。不倫の清算がデモドリとなったのだ。えっ、ミッチもそこにいるの?会いたいなあ。三人が揃ったのは久しぶりだった。お互いの辛い身上話をして、少しは慰めあうことが出来たのか、ミッチは笑い、小さいけどカップ麺も残さず食べた。トモンが持ってきたお菓子をつまみながらおしゃべりをしていると、翔太さんが帰って来た。四人が顔を合わせるのは九年ぶりになる。その日はみんな辛いことばかり重なったので、翔太さんの発案で元気鍋を食べることになった。みんなで一つの鍋を囲み、励ましあいながら、諦めないで行こう、それぞれが好きな具剤を入れて一緒に食べる寄せ鍋だ。ミッチも笑顔になって食べてくれた。私は彼のほんとうの優しさを見る思いがした。自分も辛いのにそんな素振りは微塵もみせず、鍋奉行をしてくれた。大きい鍋はないので、少ししか具剤が入らない。彼は、次は智ちゃんの好きな具剤を入れよう。みんな取った?次は美ちゃんの好きな具剤だよ。最後はぼくの好きな具剤だ、みんな遠慮していいよ、なんて、ミッチは面白がって、いや絶対遠慮しないから、それでも一口しか食べられないけど、少しは食欲も戻ってきたのかしら。
カスミン、いいね、いい人見つけたね、トモンがそう言うと、 そうです、カスミンは最高にいい人です、彼は平気でのろけてくれる。それでまた、私は暖かくなる。
トモンとミッチが帰り、彼がお風呂に入ってあまり静かなのに心配になった。いつもはカラスの行水みたいに十分位で出てくるのに、お風呂で音がしないのはおかしかった。お風呂の前に寄って行くと、彼が泣いているのがわかった。純也さんを偲んで思いがこみ上げたに違いない。私はそのままそこを離れた。ベッドの中で彼は、純也さんは逃げた、死んでしまえば楽になれるか知らないけど、両親やお姉さんはどう思ってこれから生きて行く?純也さんの不幸まで背負うことになる。子供さんだって、実の父親はもういない。辛くても苦しくても逃げてはいけないよ。私は彼が自分を励ましているのだと思った。
翔太さん、私も逃げない。だって、こんなに大好きで、大事な人と一緒だもの。夜空だっていつか朝になるよ。
夜空か、楽器吹きたいなあ。ねえ、あの高原に楽器持って行こうよ。音出しを遠慮なくやったら、帰る頃は吹けるかも知れない。
トモンもミッチも高校のときから自分の楽器だったから、もしかしたらまだ持っているかもしれない。誘ってもいいかな?
いいよ。誘おう、トランペットはソロで寂しいけど、フルートの三重奏は楽しみだよ。
翌朝、私はトモンとミッチにメールした。楽器まだ持っている?今度高原にお弁当持って行き、楽器吹こうよ。へんな音出しても大丈夫だから。二人からすぐ返事が来た。まだ持っているよ。最近音出していないから、行きたい。いつ行くの?私は彼の休みの日が仕事だったが、同僚の芳江さんと変わってもらい休みにしてもらった。芳江さんの子供が入園式で私が変わって出てあげた代わりだ。芳江さんも入園式で休んだ分どこかで取り返したい。休んだ分収入が減るから私が仕事をお願いすると喜んで引き受けてくれた。あともう少ししかないけど、代われる日はいつでもいいからね。芳江さんも生活厳しいのだなと思った。
彼の車にみんな乗って高原に出かけた。誰もいない高原の端っこに行って、さあパート練習から始めよう。彼はそう言って、トランペットを持って一人離れて行った。パートリーダーだったトモンのリードで、フルートの音出しを始めたが、三人とも音が出なかった。それでも午前中いっぱい格闘しているうちに、何とか音が出るようになった。三人とも勝手に好きな楽譜を持って来ている。共通している曲の一つが愛の挨拶だった。
お昼のお弁当を食べて、三人で愛の挨拶を練習した。音さえ出るようになれば、何とかできる自信があった。
遠くで彼のトランペットが響いてきた。ブランクを全く感じさせないいい音だった。トモンもミッチも私も、フルートを口から離して彼の側に静かに寄って行った。彼は目を閉じて涙を流しながら、夜空のトランペットを吹いていた。春の白い雲がいっぱい漂う空に、まるで葬送の儀式のように音が響いた。彼は、純也さんにこの曲を贈りたかったのだ。そのために高原に行って楽器を吹こうと言ったのだ。彼と純也さんの釣りの風景、温泉に浸かった二人の光景が思い浮かんできた。夜空のトランペットが終わると、私たちは手をいっぱい叩いた。私もトモンもミッチも涙を零していた。彼は驚いて振り返ると、この曲、純也さんに教えてもらった。純也さんもぼくも好きな曲だ。純也さんに聞いてもらいたくて、半日で音を出せるとは思っていなかったけど、どうにかできたよ。さあ、今度はフルートの三重奏だよ。私はトモンを見て、ミッチを見た。昔に戻ったみたいだった。トモンが目で合図する。愛の挨拶だ。私は彼に感謝の気持ちをこめて、無心になってフルートを吹いた。
演奏が終わったとき、彼は手をいっぱい叩いてくれた。ブラボーだよ、凄いよ、みんな全然変わっていないよ。九年だよ。九年のブランクだよ。信じられないくらい良かったよ。
カスミンの音、凄かったね、私、カスミンに引っ張られたわ。トモンがそう言うと、私も、なんか、神がかり的な音だったよ、カスミンがこんなに上手だってびっくりした。ミッチまでそんなことを言う。私は彼のお陰だと思っていた。
帰りの車の中で、また行って音を出そうよ、今度いつ行けるかなあ、そんな話をしていると、私の携帯電話がなった。母から電話だった。
香澄、すぐこっちに来て。悪いのよ、お祖母ちゃんが。病院は難しいって。 そんな、この前会ったとき、元気だったじゃないの。 それが昨日から急変したの、香澄、喪服持ってお帰り。
お母さん、お祖母ちゃんが生きているうちに、喪服を持っては帰れないでしょう。
結局私は、杉野店長に電話してしばらく休みたいことを説明し、バックに着替えと喪服を詰め、彼にキスをして送り出してもらった。H市に着いたのは完全に夜だった。病室は変わっていた。ナースセンターの隣の部屋で、いつでも駆けつけられるよう計器がつけられて、母が側に立ち、看護師さんが二人ついていた。私はお祖母ちゃんに声をかけたが、もう意識はなかった。母は経過を説明した。
昨日のお昼までは、いつもと変わらず話もして、ご飯も食べたのよ。夜はお腹が空かないから、と言ってあまり食べなかったけど、話はできた。今日お昼前に来たら、もう眠ったみたいで、ご飯やお水どころじゃなかったの。慌ててこの部屋に移って、点滴をして様子を見ているけど、肺炎を起こしているみたいなの。夕方先生から、会わせたい人がいれば早く会わせて下さい、そう言われて、ああ、もう長くはないと覚悟をした。孝之と香澄に電話して、孝之は明日の朝十時くらいしか来られない。一番の飛行機でM空港に降り、それから特急電車でここまで来ることになった。純子さんも一緒よ。それまで待ってくれればいいけどね。
母はそう言ったが、お祖母ちゃんはそこまで待ってくれなかった。私が着いて何時間もしないうちに、眠るように亡くなった。それからはスケジュールを刻むように進んで行った。車で自宅に運ばれ、自宅にお祖母ちゃんを寝かせると葬儀屋さんが来た。祭壇が手際よく作られ、近所の人がお悔やみに来た。兄夫婦が着いた頃は、もうすっかり葬儀の仕度も心の準備も整えられていた。昼になると葬儀屋さんがお祖母ちゃんを運んで行く。斎場に通夜葬儀の準備が出来ているのだ。私も母も喪服に着替え斎場に行く。母は連絡する人のメモを取っている。兄夫婦は携帯電話でそれぞれ仕事関係へ休みの連絡を入れている。私も杉野店長と彼に、電話とメールをした。彼の声が聞きたかったが、仕事中なので我慢した。