青の彷徨 前編 2

  万丈支店は当直二名を除き、女子社員三名を含め全員宴会に参加した。大日製薬が支店総抱えで宴会を持ってくれるので、本社から幹部も集結し、支店社員との親睦を図ることにした。新製品の実績は、宮内推進部長の話によると、万丈支店が断然にいいそうで、大日製薬も喜んでいた。
  宴会は無礼講が建前だが、京町健太郎社長の隣には大日製薬の支店長が座り、五味支店長の隣には安田課長が座った。五味安田コンビは酒が飲めず、ゴルフの話ばかりで、気が合うのだ。周吾は橋田祐太郎と小林政男の間に座ることになった。支店の実績が悪くないので、にぎやかな宴会になっていったが、隣の小林政男は静かだ。いつもなら、大頭とぶ厚い胸を一緒に揺すりながら、細い目をさらに細めてよく笑う男が、あんまり元気がない。実績が自分だけ悪いからだろう。
  「みんなすごいな。俺だけ半分も達成しない。みんなすごいな」
  「大丈夫ですよ。なんとかなりますよ。元気出して飲みましょう」
  小林の向う隣から、一番若い大野達也がビールを小林に勧める。
 「大野君に言われたらがんばらな、いけんな」
 「そうです。がんばるのは飲むことです」
  大野はもう酔いが回ったか。大野は元気と若さが売りだが、酒に弱い、すぐにはしゃぎ出していつの間にか寝てしまう。
 「小林さん。どんどんいきましょう」
  この場で新製品の実績の話を、後輩の周吾から、先輩の小林にするべきではない。小林政男は大野に任せよう。大野達也はまだ若いが薬剤師でもあった。無分別なことをいう人間ではなかった。
  「塩見。お前は今日なぜおくれた」
 二課の黒田浩太の声が飛んだ。
 「それが大変だった」
 橋田祐太郎の隣から。塩見太郎が答えた。
 「お前はいつも、大変だからな」
 野々下光が言った。
 「浦代医院に行ったら、患者さんも院長もいないんです」
 「そりゃあ、倒産して夜逃げか」
 野々下光が突っ込みを入れる。
 「違いますよ。院長はどこにいるか、聞いたら、自宅裏庭の池に行っている、と言うので、そっちに行きました。今日は絶対予約もらわないといけないでしょ」
 「そうだ。絶対予約だ」
 また野々下光のやじだ。
 「池に行ったら、院長何をしていたと思いますか」
 「鯉でも釣っていたのか」
 「まさか。池の掃除をしていたんです。ズボンの裾をあげて、サンダルはいて、学校のトイレ掃除に使う長い柄のついたタワシを持って、ゴシゴシやっているんです」
 「そこで、注文ください、とは言えんよなあ」
 「そうでしょ。それに浦代先生もう八十過ぎだし、枯木が池に倒れかかっているようで」
 「そのまま見ているわけにもいかんしなあ」
 「でしょう。それで、お手伝いします。と、言ったんです」
 塩見の話はみんなの注目を集めた。
 浦代先生は待ってくれていたようで、
 「悪いなあ。そこに、ほらサンダルがあるだろう。それ使ってくれ。タワシも、まだあそこの倉庫にあるから、持ってきてくれ」
 塩見が掃除を始めるとすぐ、看護婦さんがやってきて、
 「先生クランケです」
 「そうか、わかったすぐ行く。塩見君悪いなあ、あと頼むよ」
  先生はそのまま診察室へ行ってしまった。塩見は結局、残った掃除を一人で終えた。全部終えてから、浦代先生が戻って来た。栓をして水を入れる。池の浅いエリアに移された鯉は、深くて広い池に水が溜まり、やがて浅いエリアの水面を飲み込んで同化してくると、仕切りの板がはずれるのを待ちかねたように、慣れたもので、広く深い元の住処を確かめるように泳ぎだす。
 「ああきれいになったな。池はきれい過ぎても鯉は飼えんが、汚すぎても飼えん。折合いというか、適当というか、鯉も人間も同じだな」
  「そんなものですか。それにしても、先生、無理をするといけないですよ。今度掃除する時は、前もって声をかけてください」
 塩見はつい、余計なサービス精神を発揮した。
  「そうか。ありがとう。あの大きい奴が、素直に移動してくれんと、網で運ばな、ならんで、重い。塩見君なら片手でつかむな」
 どうも。塩見太郎の体力は、期待されていたような。
  「ところで、先生。あさって新製品が発売になるんです。五百錠持ってきますので、お願いします」
  「うちは患者もおらんが、わしが生きている間に、使こうてしまえるかの」
  「先生冗談でしょ。一ト月分です」
  「安くしておいてくれよ」
  「ありがとうございます」
 そのあと塩見は、先生の肩をしばらく揉みながら、
  看護婦さんの、「クランケです」を待っていたが、一向にその気配もないので、
  「先生すみません。今日夜、本社から営業部長が来て、会議があるんです。これで、失礼させてください。明日またお伺いします」
  「そうか。西郷さんに睨まれんように。狸に噛み付かれんように」
  「はい。今日はありがとうございました。ご注文頂き、大変助かりました。ありがとうございました」
  それで、結局塩見は、浦代医院に二時間かかってしまい、夜の会議に遅れる羽目になったのだ。
  いつの間にか、席も入り乱れて、誰もが、ビールか酒をもって、ついで歩いている。まともに席にいる方が少ない。
  そんな時、店の女の人が慌てて入ってきて、
  「すみませーん。小林さん。いらっしゃいますか」
 と、宴会の騒ぎの中でも届くように、大きな声をかけてきた。
  社宅の隣人、野々下光が、
 「おい。小林。美人女将が御用らしいぞ」
  その周りがまた盛り上る。
  小林政男は、不思議そうな面持ちで部屋の外に出て行った。部屋の外に、若い制服姿の警察官と、スーツ姿で短髪の中年男がいるのが見えた。小林政男は、二人の男からメモを見せられながら話を聞いたあと、また戻ってきた。戻ってくると席に戻らず、五味支店長と安田課長の間にまっすぐ行って、二人に話し始めた。すると、腰の重かった二人の上司も立ち上った。五味支店長は京町社長のところへ、安田課長は小林政男と一緒に部屋を出た。五味支店長は、京町社長、藤村営業部長、宮内推進部長、藤原人事部長、大日製薬の今村裕史と順次、何か事態の説明に回ったようだ。やがて、安田課長がまた、五味支店長の隣に戻って、二人で顔を合わせて話し始めた。そこへ、京町健太郎社長がやってきた。藤村営業部長も藤原人事部長も集まってきた。そしてすぐまた散った。
  宴会はしばらくまだ続いた。
  宴会が峠を越しかけた頃、安田課長が、店の人に呼ばれて出ていった。しばらくして、安田課長は戻ると、五味支店長、京町社長、そこへ集まった幹部連中に何か説明を始めた。ネクタイを頭に巻いて、両頬に口紅で渦巻きを描いて、すっかり酩酊しているように見えた藤原人事部長が、突然沈痛な表情になると、ハンカチを出して顔を覆った。
  会場の空気が一瞬で変った。よくない事態が起きているようだった。矢田課長もその仲間に入って行ったが、宴会は、秘密をもったまましばらく続けられた。
  営業関係はできるだけ、それ以外は無理をしなくてもいい。メーカーさんと懇親を深めるので、予定のない者は参加しなさい。と、いういつもの流れができて、二次会のスナックへ移動した。営業では、大野達也が眠そうだったので、商品課の深田課長が連れて帰った。女子社員三名も一緒に抜けた。京町健太郎社長と宮内推進部長、大日製薬福岡支店長、福岡営業部長の四人は社長車に乗込んで大分まで帰った。
  広いボックス席に全員揃って、また乾杯となった。
  「万丈支店の実力に感心しています。さすがです。明日はもう達成できそうです。北島、今村をどんどん引きまわしてください。ご要望があれば何でもいいですから、二人に言ってください。できることは何でもしますから」
  大日製薬の大分営業所長はご機嫌で、挨拶した。
  二度目の乾杯が終るや、またそれぞれ、ざわつきが始まった。
  周吾は、隣に座っている矢田課長に、小林政男のことでなにが起きたのか、聞いた。
  「詳しくはわからんが、小林は、踏切事故の遺体の確認で警察に呼ばれた。どうも奥さんらしい」
 「え、踏切事故ですか」
 「鶴路踏切と言うが、よくわからん」
 「間違いないんですか」
 「小林によると、本人かもしれん、というのだ」
 「社宅には子供がいて、野々下の奥さんがみているが、小林の奥さんは帰っていない」
 「見ただけで、確認できないくらい損傷があった、ということですか」
 「だろうな。最終確認がとれれば、明日中にも連絡があるから、それまでは、あまり公にしないようにしてくれ」
  周吾は、今日、森山医院から帰る時、鶴路踏切の渋滞を思い出した。あれは人身事故だったのか。しかし、小林政男は会社の社宅に住んでいるから、鶴路の踏切まで行くはずもない。まして、三ヶ月の赤ちゃんを抱えていく場所でもない。
  宴会の席で、わいわい飲んでいる時に、いくら幹部がいて、普段より重い気持ちでいたとしても、今日一日の、外回りの気を使う仕事から解放されて、咽と腹をゆったり満たしている時に、突然警察に引き立てられ、妻の遺体の確認に行くことになった小林政男の心境は、どんなものだったのか。
  予想もできない夢の中のことが、突然、現実としてのしかかっている。周吾は、暗い淵に降りていこうとしている小林政男の後ろ姿が、見えるような気がした。
  社員の急な不幸を理由に、この宴会を中止にはできないのか。大日製薬は折角の機会と思って、京町薬品万丈支店との結びつきを深めたいと思っている。小林の件は、最終確認がまだであること。あくまで個人の家庭の問題であること。会社の利益が優先され、宴会は続行される。
  「塩見君。浦代先生は元気にしちょるか」
  藤村営業部長が塩見太郎に声をかけた。
  「はい。お元気です。部長は浦代先生をご存知でしたか」
  「昔、わしが担当しちょった」
  「え、そうですか」
  「まだ開業してたで、患者さんも多かったんじゃ。あの辺の村は、浦代医院だけで、今みたいに万丈の市内まで、気軽に出て来れんかったからなあ。畑浦も波越からも、半島を回っち、皆船に乗って来よった。診療所の下が船着場になっちょっての。便利じゃった。浦代先生は評判がよかったんじゃ」
  「そうなんですか」
  「先生は釣りが好きでな。診療所の下に小型船を繋いでおいてな、夕方患者さんがおらんごとなると、乗って出るんじゃ。それにわしも何べんもつき合わされたもんじゃ。そげえすると帰りが遅くなろうが、会社に戻っても誰もおらん、ちゅうことがようあった。鰤とか鯵とか、鯖とかもろうち(貰って)、わしは、女房はもろちょらんかったが、妹弟がいっぱいおってな、そいで社宅におっちょったんじゃが、うちでん食いきらん。寮に持って帰ったら、寮母さんが喜んじのお。いつか他ん得意先からん返品をもっちょっちな(持っていて)。昔はバイクで、荷台の籠は一つしかねえ。薬と魚が一緒にはっちみい(入ると)。新聞紙につつんだくらいの魚じゃ。薬の箱がびしょ濡れになっちの。結局返品できんごとなっち、わしはそん薬を浦代先生にとっちもろうたわい(買ってもらった)。それから魚釣りに付合うのはようねえ(良くない)、と思うちな。寮母さんには悪いがしおいね(仕方ない)。先生に、魚を釣らんで、飼うよう勧めたたんじゃ。魚を釣ってん、食いきらん(食べきれない)。患者さんは漁師ばかりじゃ、銭の代わりに魚をもっちくる人もおったくらいじゃ(持ってくる人もいた)。先生も釣った魚にこまっちょったんじゃ(困っていた)。そいで、おれに持たせてくれよったんじゃ。池はまだあるかえ」
  さっきの宴会場での塩見の話は聞いてなかったのか。
 「え。鯉は部長のお勧めですか」
  「そうじゃ。海に釣りに行くよりよかろう。あん池もわしがだいぶ掘った」
  西郷さん、スケールがちがう。周吾は感心して話を聞いた。塩見が池を掃除することは、京町薬品担当者の通常業務と言うべきことだったのだ。
  この会社はなにをする会社か。営業はバケモノみたいな仕事だ。要は得意先が好きになれるか、だ。と、周吾は思った。

 

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