豊穣の国 五
七月も終わりに近い日に、北の井の部屋を出て、東丹から東山に向け、楡の森を左手に見ながら私は散歩していた。東丹に近い楡の森の七前にある陶芸工場の軒先から、中で志野が一人轆轤を回しているのが見えた。牧村は志野が陶芸をしているのは聞いていたが、実際にやっているのは初めて見たので、つい興味がわいて中に入っていった。志野は茶碗らしき物を作っていた。
「お邪魔して、見させてもらっていいですか?」
そう聞くと、
「いつもあなたの描いているのを勝手に見ていて、自分がやっている時はだめ、とも言えないから構いません。でもまだ上手くいきません」
そういって笑った。茶碗のように見える、少し大きいようだ。なんだろう。
「何を作っているのですか?」
「もう豊饒祭がちかいでしょ。私も一つくらい出してみようかと思って、お茶碗を作っています。お茶碗に見えるかしら」
「なるほど、抹茶に使う時の、大きいお茶碗ですか。わかりました。焼き上がりが楽しみですね。これは本物の志野焼きですよ」
志野は大笑いをした。
「これは志野焼きではなくて、志野が焼きですよ。名前も気をつけないと、私そういう積もりで、陶芸を始めたわけじゃないですから」
と、必死になって言う。
「牧村さんも、お口が悪い」
「いえ、ほんの冗談の積もりでした。ごめんなさい。でも志野焼きは素敵ですよ。鼠志野もいいし、私は雪志野と呼ばれる白も穢れない肌のようでいいと思います」
「牧村さんは焼き物お好きなのですか?」
「いえ、焼き物が好きという程ではなくて、志野焼きは、川端康成の千羽鶴という小説にでてくるのです」
「それ私も読みました。ヒロインの肌が志野焼きの肌のようだ、とかいうのでしたね」
「そうです。その小説を書く時に立ち寄った場所が、ここからそう遠くないところなのです。久住というところです。その小説の名前をもらって、千羽鶴という日本酒もあります」
「そうですか。それは知りませんでした。小説の舞台は鎌倉でしたよね。その小説を書くのに立ち寄ったところは何か名所か何かですか?」
「いえ、山と川と温泉があって、静かさだけが取柄の、美味しいお酒があるところです」
「それだけあれば十分です。行ってみたいです。牧村さんは行かれたことがあるのですか?」
「私はもう何度も行きました。その時に泊まったかもしれない旅館もあります。久住はとにかくいいところです。九州の屋根にいるような、遠くをのんびりみて、ボーと出来るところです」
「牧村さん行きたいです。連れて行ってくれませんか」
牧村は驚いた。志野は自分からどこへ行こうなど言う人ではないと思っていた。志野は変った。いい方向に変った。牧村は志野の意志を大事にしなければいけないと思った。
それに牧村は志野のように美しい人を連れて旅が出来ることを嬉しく思った。むしろ願ってもないことだ。急に若くなった気持ちになった。
「私でよろしければご一緒しましょう。日帰りでも泊まりかけでも。久住も広いですから、志野さんが行きたいところをご案内します」
「わあ、嬉しい。私こんなの初めて。今までどこかに行きたいなんて思ったことなかったですから。不思議です。あとで調べてみますから、また相談させてください」
牧村も志野同様に嬉しくなった。いまさらどこかに旅に行こうなど考えもしなかったが、いざ行くとなると何かわくわくするような、昔の若い時分とそう変らない気もして来た。散歩を再開させ、いつもの欅の広場で画板を広げてみたが、一向に描く気になれない。なぜだろう。描く気になれないなら無理をすることもない。ここは全くの自由なのだ。早々と店じまいをして引き上げることにした。折角ここまで来たから、希の池から希の丘へへ登り、ブナの森から楡の広場を通って北の井の部屋に帰って来た。
部屋に入って南側の窓から、豊饒の国を見る。あちらこちらで人々が歩いている。救助車が走っているのも見える。これだけの施設だから、一月に何人か亡くなり、何人か新しく入居してくる。豊饒会館では今日も葬儀があっているはずだ。それも日常のことだ。ここは普通の町と変らない。豊饒会館は葬祭も出来るが、舞台設備もある。二階、三階は大小の集会場もある。展示会などが開催されるし、外部の人が使うことができる。入居している人は自由にどこへ行くことも出来る。ただ届けはしないと行方不明になる。
窓から見える景色のはるか先に、妻と暮らした場所がある。妻と初めて出会った学校もある。田舎の小学校と中学校が秋に合同で運動会をやる。そのための会議に出たら、新人教諭で紹介された人が妻になった。あれから三五年も一緒に居た。大きな喧嘩をすることもなく。いつの間にか過ごして来た。妻と初めて一緒に取り組んだ運動会の打ち上げで、すっかり意気投合した二人は、休みの日はほとんど一緒に過ごすようになった。千羽鶴の酒造場の見学も行った。九重の山にも登った。坊がつるでキャンプもした。いつの間にか公然の付き合いになって、周りからせかされて結婚した。子供が産まれたら私は辞めてもいいかしら。妻はそう言った。小学校の先生は体力がいるのだ。妻の希は適うことがなかった。妻も私も兄弟がいなかった。妻は学校に勤めた年に父を交通事故で亡くし、それから十年後に母をクモ膜下出血で亡くした。牧村は妻の母が亡くなった年に父親を心筋梗塞で亡くし、母はその後十年後に脳出血で亡くした。二人の両親とも介護を受ける暇もなくあっと言う間の死となった。それぞれ親戚はあるものの、身内は誰もいなかった。二人とも夫婦だけの孤独な生活者となった。その分お互いを頼ることになった。喧嘩もせず仲良くやってきたのもそんな環境もあったのかも知れない。一人だけになって、新しい自分の生活のために、この豊饒の国へ、すべてを処分してやって来たのに、牧村は、自身の終末を夢見るだけの生活になり、妻の面影を追う毎日を過ごしていた。
それが変るかもしれない。志野の出現である。志野の新しい出発のために助言し協力する積もりでいた。それが今や、志野に引っ張れて牧村自身の再出発になろうとしているのだ。
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