平和社会学の講座を終えて~「考えさせるには難しすぎる」中高生が積極的平和について考える意味-2/3
高校生S
この文章を書いている途中、ひょんなことから一昨年の選択授業の講座を思い出した。「システム思考」。システム思考において小さな変化は、すべての構成者の意図を介さずに自転するシステムのなかで、すべての構成者を巻き込み、全く予期せぬ(若しくは、できたとしても有効な対処が施されぬまま)巨大な変化というフィードバックとなって我々のもとへやってくる。それは、ビール価格の乱高下に頭を悩ませる小売店の、簡単なビール工場から消費者までの一連の流れを例にとった思考実験でも、覇権国家とテロリストとの報復合戦でも全く同じ構図を見いだせるのだそうだ。
話を平和社会学に戻そう。私は「平和とは如何にして成るのか」に、決定的な処方箋は存在しないと考えている。かつて数多の哲学者たちが平和を説き、幾世紀にも渡って賛同と探究の対象であったそれらをもってしても、この世界に平和が訪れる気配はない。その昔、カントが永遠平和の中で説いた世界の諸国家による連盟は、現実との折衷のなかで一度の世界大戦と続く数多の戦争を止めることはできていない。マルクスの考えた構造的暴力のない社会もまた、さして変わらない暴力の社会という形で世界に出現し、一世紀と経たずにこの世界から消えていった。唯一の戦争被爆国である我が国ですら、その平和のあり方には一様な答えを見出していない。
このように消極的平和ですら、枚挙にいとまがない。積極的平和の範疇に入れば、それはまた違った他人事の感すらも帯びてくる。そして、それらは無視し続けても全く同じ顔で明日を生きてゆくことができる。では、なぜそれらの問題は“考えなければならない”とされ、現にここに学問が存在しているのだろうか。このことはまったくのステレオタイプな「高校生」が答えるには勉強不足が過ぎるかもしれない。しかし、あえて言葉を綴ろうと思う。
-3に続く