平和社会学の講座を終えて~「考えさせるには難しすぎる」中高生が積極的平和について考える意味-1/3
高校生S
平和とは如何にして成るのか。一昨年自由学園に岡田斗司夫氏が来校され、「最悪な平和とまだマシな戦争」をテーマに講演をされた。氏の鋭い分析と明朗な表現で、全員とはいかないまでも一同聴き入っていたことを昨日のように覚えている。その際の動画が、一昔前にYoutubeで盛り上がりをみせていた。しかし、幾度となく切り抜かれ拡散されていったその動画につけられるサムネイルの文字は、寄せられるコメントは一様に「中高生に考えさせるには難しすぎる」であった。当時中等科三年生だった自分も、その切り抜き動画の製作者からすれば、コメントを書き込んだユーザーからすれば、ステレオタイプな「中学生」であり、「考えさせるには難しすぎる」対象であった。
そのステレオタイプな「中学生」が今、ステレオタイプな「高校生」として選択授業で平和社会学の講座に座っている。そこで扱われるのは「ジェンダーギャップ」の問題であり、遠い地で封殺された「いじめ」の問題であり、「基地」の問題であり、また時には80年近く前の日経アメリカ人の「差別」の問題であり、「戦争」の尊い犠牲者だった。「高校生」である自分からすれば、そうでなくともほとんどの人からすれば、それら諸問題は物理的に、心理的に、もしくは時間的にとても遠くにあり、ともすれば他人事である。一人の“男子”高校生に向けられた、ジェンダー問題において概して加害者である性別への責任の視線は(誤解を恐れずに言うならば)自分自身がDV加害者でもなければ、言うまでもなく痴漢の加害者でもないのだから、当然の如く良い心地で受けられるものではない。どこの学校でいじめが起ころうとも、いま自分がいじめのないクラスで穏やかな日々を送っているからこそ現実味は帯びてこず、そこに大人のいじめが関わってくる(しかもいじめの当事者のさらに外周で)となれば、いとも簡単に“面倒”の手の中に落ちる。戦争や差別は、一人の「高校生」がなにかしたところで即刻停止するものではなく、それが80年も前のこととなれば言わずもがなその文章を読んでいる自分にできることなどない。基地について、統治行為論だと投げ出したい人間は少なくないはずだ。
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