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小樽手宮爆発事故  小樽新聞 大正13(1924)年12月29日 月曜日 その1

27日午後に起きた未曾有の大爆発事故が発生し、遺体・負傷者の捜索活動で大混乱となった小樽手宮駅と港。一夜明けて次第に落ち着きを取り戻すと、悲惨な状況が明らかになっていった。

明らかになった悲劇 さらけ出された遺体
 80メートル以上も沖へ吹き飛ばされた艀船 爆発は陸上で起こったか
 
昨日報じられた小樽手宮駅構内付近の火薬爆発は付近の海岸一帯を破壊して未曾有の大惨事となった。
 家屋は壊れ、人肉が飛び、馬は倒れ、汽車でさえ吹き飛び、空を飛ぶカラスまでもが見るに堪えない残酷な姿をさらしたまま、夜となった。
 死傷者を収容した市内の各病院や中一艀組事務所付近では、夫や子の名前を叫ぶ遺族たちの泣き惑う声が、夜通し響き渡った。
 翌28日は夜半から濃霧が立ち込め、一切のものを包んでいたが、夜が明けるにつれて霧が晴れ、明るくなると目も当てられないほど残骸が目に飛び込んできた。
 爆発前には15・6隻の艀船が岸壁に係留されていたことが、発生5分前まで現場で作業をしていた中一艀組作業員松井政次郎の証言によってわかっていたが、その全てが爆発と同時に一斉に沖に向かって押し出され、損壊または沈没していた。
 貨物列車に火薬を積み込んでいた艀は船尾を半分出して転覆していた。付近に同じく繋留していた揮発油を積んだ艀は80メートル以上も起きに飛ばされて発火し、深夜1時頃まで延焼していたが、今はほとんど水没している。
 引き船(タグボート)汽船紫丸もまた50メートル以上も沖合に吹き飛ばされ水没している。
 先ほど記述した中一組松井政次郎は爆発の5分前まで現場で作業をしていた。その時には艀船に約30箱くらい火薬が残っていたが、作業員約20人が積込みをしていたので、その場を離れて5分後にはほとんど貨物列車に積み終わる頃だと言っていた。爆発現場は艀船の上なのか、貨物列車に積込む際に取り落として発火したものかは不明である。
 しかし、岸壁に係留していた艀船のほとんどが沖に向かって押し出され、岸壁に直径約6メートル30センチ、深さ1メートル50センチの大穴ができ、火薬を積んでいた艀船の前半分を破砕して、転覆し後ろ半分だけが残っていることから、爆発は地上で発生したのではないかと言われている。
 とにかくその爆発力は強大で、現在碇泊中の砕氷船大泊の艦長毛内中佐および大西慎二氏の話によると日露戦争当時、ロシア軍の二龍山砲台を爆破するために使用した火薬は2,500キロであったとのこと。今回は既に札幌へ輸送した200箱以上を除いても、10,000キロ以上になるため、その爆発力がいかに強烈であったか想像できる。
*この日露戦争でのロシア軍の砲台については映画「二百三高地」を見ていただけると、いかに頑丈なものかわかります。 

 また、使用した火薬の量については横浜市立大学の資料を見つけましたので、引用いたしました。

(8) 東鶏冠山北堡塁爆破作業の経過
▲旅順攻囲戦の経緯・第十一師団東鶏冠山北堡塁爆破作業の経過▼
正攻法によってこの堡塁(ほうるい:敵の攻撃を防ぐために、石・土砂・コンクリートなどで構築された陣地のこと)の外濠を前端に達したので、この濠を越えて 敵の拠っている胸墻(きょうしょう:戦場で敵弾を防ぎ、味方の射撃をしやすいように胸の高さほどに築かれた盛り土)の爆破作業を始めなければならないのだが、この 外濠にはペトン製(コンクリート製)の外濠側防設備(カポンニェー ル)が完備しているため、外濠に飛び込めば後方から、また側方から敵の射撃を受けるので、先ず、外濠側防設備を破壊しなければならないので、爆薬でこれを破壊した。
中略
外濠を廻って堡塁の内部と通じているから、日本軍の突撃隊が外濠に飛び込めば、後方又は側方から敵の射撃を受けるから、この側方設備を完全に占領しなければ堡塁の奪取は出来ない。そこで坑道を掘って、この側防設備のベトン壁を最初手前の部分を、次に敵側の部分を爆破したがそれだけではまだ不十分で、その次には側防施設内の敵の妨害を除去しなければならないので、くらやみの内で戦闘して所要の部分を占領しそこで胸墻爆破の立脚地を占領したのである。
以上の作業をしてから、いよいよ堡塁の胸墻の中腹に爆薬を装置したのだが、これを装置するための工事は夜間行った。 然し、岩石のような土質で進捗せず中々の難工事で、一一月二六日に行われた第三回総攻撃の時には六〇〇キロの爆薬で爆破したが、胸墻の一部が破壊されたのみで、堡塁の大体には何の影響もないので、 その後さらに爆薬の強度を二、五〇〇キロに増加し、その工事を急ぐことにし、一二月半ばようやく出来上がったので、同月一八日午後四時大爆発を行い、これに続いて突撃隊が突入して堡塁占領の目的を達成し得たのである。 二、五〇〇キロの爆薬をどうして手にいれることが出来たかというと、これは敵が大連(当時のダルニー)に遺棄したものを我が軍で鹵獲(ろかく: 戦場において、商取引なしに物資や兵器などを入手する事)したものである。

横浜市立大学論叢社会科学系列 2019 年度:Vol.71 No.2 川瀬亨陸軍大尉の旅順攻囲戦参戦記録 ──要塞爆破の最前線秘話── 松 井 道 昭・五十畑 弘
より引用



大損害を受けた共同倉庫
 被害額は判明せず

 被害が甚大であったのは手宮町2丁目の共同倉庫で、そのほとんどが壊滅的な状況であり、倉庫内の荷物も同様であるため被害額は未だ判明していない。
 これに次いで北濱町1丁目の右近倉庫では、倉庫前にいた2頭の馬橇をつけた馬が倉庫の崩壊により生き埋めとなった。また当時事務所には5人ほどが執務中であったが、幸いにも4人は崩落から免れたが、綛谷某は下敷となって生埋めとなったが、机の下に潜り込んでいたことから辛うじて命をとりとめた。
 それ以外に北濱町1丁目廣海手宮駅構内の北都組倉庫および近海郵船の倉庫等被害が甚大でいずれも損害額は未だ判明していない。
 
爆発の損害約95万円
 小樽署の調査

 小樽警察署が調査した爆発の損害は総額95万円内外でその内訳は次のとおり
・倉庫その他の建物15万8千円
・倉庫内在荷8万円
・家財道具その他12万7千円
・大艀船および汽船15万円内外鉄道関係運輸損害貨物
 米60俵、味噌雑貨490円、火薬2万円、港内浮流の難物1万円、
 鉄道保線官舎5万円その他駅舎3万5千円、線路2万5千円、油類2千円
これに全く原型をとどめない貨物列車5台、大破7台、小破11台、客車大破11台、機関車小破1台にその他を加えると100万円を突破するだろうと見込まれる。
 
倒れた倉庫16棟 半壊29棟【小樽署調査】
 被害を受けた倉庫で全倒は16棟(石蔵を含む)同じく半倒は29棟、人家は半倒が4棟、小屋は全倒が4棟で半倒が18棟。その他小破は多数で被害区域は手宮町、錦町、末廣町を主とし色内町稲穂町方面から港町有幌町まで及んでいた

保安課員の出張
 北海道庁警察部では今回の小樽災害調査のため、保安課より浅野警部および技師1名と松川部長を27日夜出張させ、翌28日早朝から小樽署員の案内で現場にて詳細を調査した。

正保丸に責任はない
 火薬を積んで小樽に入港した正保丸は佐世保青木汽船部の所有船であり、秋田県船川中川汽船部がチャーターしている。同船は12月17日山口県小野田沖合で火薬815個を船尾上甲板に積込み、小野田を出帆し21日に秋田船川に入港。同所において石油5,915個(揮発油も含む)を積取り、25日午後1時15分に火薬および石油全部を引継いだのであるので、正保丸には全く責任がないのである。そしてこれらの荷物は1隻の大艀に積込み、手宮構内付近に係留したまま一夜をあかし、27日火薬揚陸中に前記載の惨事が発生したものだ。
 
判明した死傷者
死者
 
手宮町済生會診療所
 高島町23 髙島彌太郎(42)
 手宮町鐵道官舎 機関士 山形再槌
 末広町46 谷内助九郎
 富岡町1丁目 道場正則
 石山町50番 坂慶義
 豊川町59 横井博
 祝津町 上野久蔵
 稲穂町西3丁目29 笹原榮太郎
 豊川町69 相馬勘七
 梅ヶ枝町44 河野金太郎
 錦町212 笹森市太郎
 第八部消防部 渡邊正雄
 稲穂町西3丁目18 村松富蔵
 稲穂町龍宮神社 下松國蔵
 信香町1丁目5番地 坪田小一郎
 清水町23 小野元次郎
 豊川町82番地 吉田高吉(37)
 余市町字澤町 相谷ヒデ
 高島町12 髙松庄松(47)
 若松町以下 安井吉蔵(32)不詳、長谷川光吉(32)外2名、
       引き取り人なき死体男2名、女1名
三田病院
 紫丸(中一所有)船長 計庄辰五郎
         同火夫長 石井外次郎
         水夫 佐藤三蔵
         外一名不詳、引取なき爲め小樽署へ引渡す
岡本病院
 稲穂町東二丁目六番地 泉才助
 色内町三丁目下宿屋方 丹保忠五郎
重傷者
植田病院 三井物産、森カキ不詳 浅野某 横井某 
瀬戸病院 梅ヶ枝町51菊池喜三郎(19)末広町六下牛?造(29)
     大倉組合宿所伊勢太?吉(24)
小樽病院 住ノ江町1-22島田正作、眞栄町1渡邊多作(28)
     江別町山田清七(44)奥澤町2-59山木長作(41)
     (合計4名)
髙野病院 紫丸機関長、道瀬伊惣吉(27)
阿部病院 末廣町38田中勝治(52)
三谷病院 末廣町石郷岡治作(28)同25本間兼蔵(55)
     同30前田正治郎(30)開運町5-21川崎吉助(41)
     福井宗一(?)(計5名)
軽傷者 
三谷病院   60名
鎌倉病院   50名
黒瀬病院    2名
植田病院  109名
岡本病院    7名
仁生堂病院   2名
野村病院   20名
棟医院     5名
戸田病院   40名
池医院     4名
齊藤病院    4名
飯田病院   12名
間野病院    5名
武宮病院    5名
小樽病院    6名
高野病院    1名
    合計332名

夜を徹して調査につとむ
 海上警備は夜通し行われたが、28日午前1時に鎮火したので、爆破と同時に吹き飛ばされ行方不明となった者の捜索を午前9時から潜水機を据え付けて、一斉に開始された。
 開始と同時に文後政五郎が発見され、午後2時半迄に発見された者は次のとおりである
 錦町23番地 文後政五郎(46)
 若竹町51 池田勘助(39)
 花園町西4-6 伊藤清吉(43)
 稲穂町東2-2 皆川常蔵(41)(心臓破裂)
 梅ヶ枝町52 石川榮吉(不明)
 豊川町丸1 小野艀部人夫 渡邊幸吉 
 山町72 早鳳丸水夫長 草島堅二(30)
 砂留町 伊藤留吉(43)
 高島町 早鳳丸水夫 佐々木重太郎(17)
 稲穂町西5 早鳳丸船長 森田茂蔵(43)
 姓名不詳の朝鮮人らしき者1名
 計11名
 その他左上搏部一本、背中の筋肉一部を発見した。その傍らに、中一仲仕部人夫頭柳原多十郎(39)が所持して居った荷受書が発見されことから、これを柳原と断定した。
 
赤十字救護班の診療
 日本赤十字社北海道支部では小樽市の火薬爆発で死傷者多数になることを予想し救護班を組織した。27日野崎医師を班長とし澤村書記、看護婦2名を従えて来樽。28日第四部消防番屋を診療所とし災害者を無料で診断している
 
内務部長視察
小樽市手宮駅構内附近の火薬爆発を聞き、得能内務部長は川崎属その他を従えて27日午後来樽。済生會診療所の死体収容所および
現場を詳細に視察した 。

死体捜索に働く潜水士
 砕氷艦大泊の非番兵も出動し、戦場のような騒ぎ

 爆発の現場は引き続き翌28日も死体捜索や片付けで、まるで戦場の様である。小樽市は30名の作業員、50名の臨時作業員を派遣し、運送組合から2名を出し、潜水機十台(1台7名乗船のもの)を出船して捜索を続けている。
 なお、碇泊中の砕氷艦大泊の非番兵全員が出動し、ブラックネル(いかなるものか不明)を持って死体捜索に応援していた。

次回「小樽新聞 大正13(1924)年12月29日 月曜日 その2」に続く


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