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【ラッパー鬼・初小説】「仕事まで」

 朝起きてすることなどみな同じだ。そこが刑務所でも大麻の栽培部屋でも。どこにいたって口の中が気持ち悪いのが朝だ。近所の薬局で買った新商品の薬用歯磨き粉と、奥歯の無い口と目ヤニ。昭和五十年頃に建てられたマンションはさすがに水周りがダサイ。親指ほどの青い丸タイルが詰きつめられたユニットバス。換気扇からは耳ざわりな金属音が鳴り、室内を照らす蛍光灯は今にも点滅しそうだ。綿ぼこりと女の長い黒髪が数本落ちている。口をゆすぎながら顔を洗う。すぐに煙草が吸いたくなる。スリッパを鳴らし寝室へ入っていく。痩せてはいないがすけべな体をした女が起きた。
「おはよ」
 朝八時。煙草に火を点け台所へと上がっていく。2DKメゾネットタイプのマンションは上の階が玄関と台所。下の階がユニットバスと寝室とグロウルーム。どの部屋もベランダがある物件。渋谷区のわりには屋賃も安い。瞬間湯沸し器でお湯を沸かしながらインスタントコーヒーをマグカップに入れる。シンクの中のゴミが視界に入いる。夜中起きて食べたアイスとプリンだ。これもいつものこと。毎晩二回は起きて何か食べてしまう。最近気にはしているが、習慣になってしまったものはしょうがない。それで寝れるならそれでいい。女の分のコーヒーもいれてやる。牛乳を少し入れてあげると喜ぶ。二週間目に気がついた。女はいい。小さなことでも愛情を感じてくれる。気がついたことを気がついて、一昨日の朝から機嫌がいい。
 朝八時半。コーヒーを飲み終えグロールームに入る。吸気の為に回しているファンの音が気になる。隣りの部屋には何かと気は使っているが、不安は消えない。それもいつものこと。グロウボックスからもれる光で、天井の一部が紫に近いピンク色に薄っすら染まっている。室温は二十二度。ちょうどいい。グロウボックスの扉を開けるとLEDの強い光で瞳孔が一気に縮む。
「おはよう」
 植物に声をかける様になったのは最近のこと。馬鹿にしていたことなのにその気になって言っている。そんな自分を馬鹿にしている。それは最近のこと。植木鉢に水をくれてやる。女にコーヒー、大麻に水。いつもここで吸いたくなるのをがまんして、出かける準備にとりかかる。「行ってくるわ」。返事のない部屋を玄関でふり返ると、ベランダで女が布団をほしていた。
 このマンションはエレベーターがせまい。そして遅い。梅雨があけたとニュースで観たが、暑ければせまい室内はどこもサウナみたいなものだ。長袖シャツがほんの少し湿ったように感じる。暑い。今年は猛暑のようだが懲役じゃ無いだけまだマシだと思う。
 エレベーターが開くと蝉がないていた。追い立ててくる様な音に娑婆の夏を感じ、妙な苦笑いがうかんだ。サングラスを忘れたことを悔いたが戻るのも面倒だ。まぶしそうな顔で自転車のカギを刺した。少し走って自転車を止め振り返る。外から部屋をチェックするのと、内偵や行動確認などの目を気にする。これもいつものこと。誰もいないのを確認してから初めて携帯の電源を入れた。
「おはようさん」
 近所の老人が弁当屋の外から中に向かって喋りかけている。気にしながらペダルを踏み自転車を走らせる。車の交通量は多いがタイミング良く信号が青に変わった。ペダルを踏む力を緩めず車道を横切る。と、
「おはようございます」
 今度は一瞬自分が挨拶されたのかと思ったが、サラリーマンがバス停で汗を拭きながら携帯電話で話しだしていた。走行する車のフロントガラスや道路沿いの窓ガラスが、陽の光を反射する度にサングラスを忘れたことを悔やむ。舌打ちしながらペダルを立ち漕ぐ。蝉の音が街路樹一本一本違っている。ギアを重くしてペダルを踏込む。
 自転車で十分の距離。バスで十分よりも遠い。そこに商店街がある。書斎がある。頭の中でブラントが何本あるか数える。無ければ煙草屋に、二本あれば自転車の速度を弛める。汗がういてきた頃に書斎のあるワンルームマンションの前で自転車を止めた。出所に合わせて仲間が用意してくれた部屋で、ここで書き物を始めてそろそろ一年になる。運びこんだ机と椅子は十年前に買ったもの。前の住人が置いていったソファ。最近買ったラジカセとカラーボックスが二つ。本が読めて書き物ができるだけの部屋。刑務所の独居房とそう変わらない。懲役とは時間の使い方を正すことだと思っているが、乱れても正しても悪い奴は悪い。単純で明確になってくる。それは考え方で幸せともとれる。昨日はノートを開いたままにして帰った。机の上は必要なものしかない。綿棒が入っていた半透明の容器に入っている大麻。その横にフィリーズのコニャック味が一箱。ボールペンと開いたままのノートが2冊、CD-Rが数枚と電子辞書。昨日のコーヒーが入ったままの白いマグカップと、大きめのグラスに水、それと灰皿。全部昨日のまま。
 カーテンを開けると窓一面に新宿の副都心と夏の空が広がった。窓を開き部屋の換気をする。近くの動物病院の増築工事の音が嫌ですぐ閉めた。エアコンのリモコンを目で探しながらラジカセの再生ボタンを押す。ソファの上にあったリモコンの自動ボタンを押す。椅子に座ると昨日と何もかもかわってない。昨日のコーヒーを飲み昨日のことを読む。ブラントに火を点ければ書く準備はできた。また今日も昨日の続きが始まる。また今日もまた今日もと続いていく。
ーーさあ仕事だ。

PROFILE

福島生まれ。ラッパー
赤落(2008年10月)鬼一家名義でのリリース。
獄窓(2009年)
P.P.P(2010年)ピンゾロ名義でのリリース。
湊 (2011年4月)
嗚咽(2011年10月)
蛾 (2012年2月)
あとがき(2015年1月)
火宅の人(2017年6月7日)
DOPE FILE(2018年8月)
新宿遊戯 (2023年1月) 
うぃきぺでぃあより