【ルポ 3・11フクシマ】「除染のおかげで地元に戻ってこられた」……除染作業員が見た被災地・楢葉
人生を変えた「3・14」
「ここらへんで、道がいきなり失くなってたんですよ」
福島県・浜通りエリアを縦断する国道6号線を走っていた。道は今も人気がない。楢葉町に入ると町の復興拠点としてオープンした『笑みふるタウン』があらわれ、右側には郭公山が裾野を広げている。
遠田雄大(仮名・3×歳)はこの街で兄弟3人、女手ひとつで育てられた。幼い頃に離婚した父親の記憶はないが、楢葉町出身だったという。母親の生家の祖父の家で育ち、高校時代は町内の団地で過ごした。「しょうもない悪さばっかしてた」がなんとか卒業し、原発関係の下請け会社に就職した。2011年3月11日の東日本大震災は県外に出張中に発生した。
「楢葉の実家の中はムチャクチャでしたけど、母も兄も無事でした。でも12日の朝には町内放送で原発の避難指示が出て体育館がいっぱいだったから、結局いわきまで行って。避難所も枝分かれしてる所だと、一食がおにぎり半分とかなんですよ。なのに、いい歳した大人がズルして何度も並んでたり、ああいう時は人間の側面が出るっスよね。でもまあ、そんなことで文句垂れてるうちはまだよかった」
震災翌日の午後3時36分、充電の切れそうな携帯の中で、見慣れた景色が異変を起こしていた。福島第一原発1号機が建屋内でメルトダウンを起こしたのだ。
翌々日の14日に3号機が水素爆発を起こすと、矢も盾もたまらず家族と車に乗りこんだ。同じように県外へ脱出する車で道は渋滞し、長兄の住む東京に着いたのは朝方だった。そこに2週間避難した後、遠田は仕事に復帰。さらに2ヶ月後、また別の県の発電所へと移動になった。
週末を使っていわきのスタジオに通い、右腕のタトゥーを入れはじめたのも同じ頃だ。吹きあがる放射能の中でガスマスクをする女と、涙を流す一対の目の下には「3・14」という数字を彫ってもらった。
「一般的には3・11なんだろうけど、俺にとって大事な数字は3・14。地元にもう戻れなくなった日付だから」
震災から9年半が経った現在、地元の仲間たちは皆、それぞれの避難先に居をかまえ暮らしている。遠田は5年前に楢葉町に帰還し、現在もそこで働いている。
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