「ハーレム王」と呼ばれた男・玉本敏雄|タイやカンボジアに美女を囲い築いた夢の楽園とは…
合意の上か、それとも。といってもいま話題の芸人スキャンダルではなく、50年ほど前に起きたとある事件の話。女好きの末路はいつだって一筋縄ではいかないもので……朝倉喬司集成「昭和の怪人 47人の真実」よりお届けします。
女が好きだった男
1973年1月、人身売買の疑いでタイの警察に逮捕されたとき、当時39歳の玉本敏雄は、オレは何も悪いことなどしていない—。
「このままでは娘を売春宿に売るしかない、という親に頼まれ、金を渡して囲ったまでだ」
と、うそぶいた。また
「警察? オレを調べる気なんてないよ。精力剤は何使ってるんだ、とか熱心に訊くくらい」
などと取材陣に言ってのけた。
タイ北部の都チェンマイに、10代の幼な妻11人を一ヶ所に住まわせ、「ハーレム」を営んでいたとして、玉本は一躍、時の人になった。親族の一人の、金銭トラブルがらみの密告で警察は動き、日タイ両国のマスコミは沸いて、いっとき、バンコックの歓楽街あたりをフラフラ歩いている日本人の男は、「タマモトさん」と不意に声を掛けられたりする始末だった。
そんな玉本の、居直りめいたうそぶきではあるが、貧困にあえぐタイ農村の現状、女たちやその親族がその後玉本に示した好意的な様子などを考え合わせると、彼は別に嘘を言ったわけでもないようだ。社会道徳的な面からはともかく、シビアな現実に向き合った目からすれば、「放っておいてあげた方が……」いいともいえる玉本の所業だった。
もちろん玉本は、ただ奉仕精神にかられて、こんなことをやったわけでもなかった。
後に玉本自身、手記で女たち一人一人を採点して、誰それは
「容姿は80点だが肉体は100点。いわゆるカズノコ天井にミミズ千匹の味も加わった絶品の持ち主」
などと書いているように、無類のセックス好き。それに多少ロリータ趣味が加わって、快楽と人助けの一挙両得に踏み切ったもののようだった。当時の報道をみると、女たちが住んでいたのは、農家の大き目な納屋のような建物を個室に仕切っただけの、お世辞にも「ハーレム」などと呼べたシロモノではなかった。カメラマンが女たちにレンズを向けたところ、何人かがバタバタと個室に駆け込んだ。写真を撮られるのが嫌なのかと思いきや、しばらくすると薄化粧して出てきた。などというホホエマしいエピソードも残っている。
タイ警察は結局、玉本を刑事処分せず、「好ましくない人物」として国外追放した。帰国した玉本を日本の警察は、韓国や沖縄を股にかけた覚せい剤密輸容疑で逮捕。あれだけの数の女の世話をするには金もかかるだろう、「放っておいてあげた方が……」というわけには、こちらの方はいかず、裁判所が彼に下した判決は5年の実刑。
80年に出所した後の玉本の履歴は、もうひとつはっきりしないが、フィリピンへ渡って、またしても「ハーレム」の主めいた生活をしばらく続けたもののようだ。そして90年代の末、彼は再びマスコミに登場した。
何と今度はカンボジア北部で、やはり10人以上の女たちに囲まれて暮らしているのを発見されたのである。玉本の年齢は、すでに60代半ば。その年でよくまぁ、という驚きとともに湧く疑問が、正業についていたわけでもない彼の資金源。
大阪に生まれ和歌山県で育った玉本が、銀行員から砂利採取業に転身して一財産作ったことは事実である。だが、チェンマイで気前のいいところを見せていた当時、すでにヤバい手段で金を工面していたというのだから、もとの財産の運用益に頼れるような状態だったとも思えない。おそらく、玉本を覚せい剤等の運び屋に使っていたと思しい、背後のブラックな人脈が、司直の調べや公判でそれを隠し通した彼を、その後も何かと利用しつつバックアップしたのだろう。
「もうオレは日本を捨てた」と、カンボジアで取材者に語った玉本が現在、どこでどうしているのか、手元の資料では不明だが、彼がどこかで、「自分で作った、自分だけのユートピア」の土になる夢を見ていることはたしかといってよかろう。
(文中敬称略)