【ラッパー鬼】小説「「サッポロじゃなくてアサヒだった」
朝から降る雨に止む気配はない。新宿区歌舞伎町2丁目興和ビル地下2階にあるライブハウス、新宿ホリデー。傘を畳みながら通路へと続く低い階段を降りる。ネオンや看板通路の照明は消えているが、まだ正午すぎだというのにちょっと暗すぎる。気温の低さと雨のせいで体も冷たくなっていた。水滴を払いながら通路奥に目を凝らすが、裏に抜ける奥の出入口もなぜか暗く感じる。記憶の中ではスケスケの純白ランジェリーを醸していたが、着る女とシチュエーションでその白も変化するのだろう。夜には無い薄気味悪さがある。目を逸らし内ポケットから煙草を出し1本抜いた。ライターが湿気のせいか点きづらい。吸い込む煙も湿っている。
「何かお探しですか」と後ろから声をかけられた。視界の隅で雨宿りしてるのはわかっていたが、話しかけられるとは思わなかった。煙を吐きながら振り向く。古いドレスのような白い服を着た化粧の濃い老婆。ハマのメリーさんだ。生きてるように見えなくて何も言えず後ずさった。ゾッとして立ち去る一瞬、目に飛び込んできたホリデーへと降りる階段のシャッターは閉まっていた。
それから4、5日後、飲み歩いてる時にビルの前を歩いたが、通路への階段の数が少ないように見えた。エントランスはもっと古臭く、赤いレンガ壁に消えた看板が並んでいたように思えた。全部がぼんやりしてきた。
看板やネオンが灯り、蛍光灯で明るくなった通路には、酔客の笑い声が響く。先日の昼間の薄気味悪さは感じない。
14年前。ホリデーに初めて行ったのは、酒匂みゆき&新宿コネクションのライブの時だった。誰かと待ち合わせをしていたのか、何様のつもりなのか、ビルの前で煙草を吸っていた。
地下2階へと階段を降りていく人の中に、顔見知りが何人かいる。チラっと見て何も言わない色白で禿げた赤ら顔。黒髪ロングにスカジャン猫背でグラサン、180センチオーバーのハーレー乗り。バイト先の隣店のオーナー、妖怪ベラ噛みババア。特徴のない全身豹柄男。ライブハウスオーナーの白髭じいさん。その他にも謎の多い新宿の先輩達が次々に階段を降りていく。
当時たぶん31歳、ゴールデン街に来て数年経っていた。酒屋の場所、ゴミの捨て方、あの人の店、あの人の女、あの人の男、薬を売ってる人、、、どこに何があるか、どこで何ができるかわかってきた頃、トムさん(その後ピンゾロのベースになる)の店、音吉で酒匂みゆきをはじめて聴いた。
その時点で彼女はカヴァーアルバムを3枚リリースしていた。日本人男性歌手の曲をまとめた「Man」、日本人女性歌手の曲をまとめた「Women」、海外の歌手の曲をまとめた「Human」。俺はWomanに収録されている浅川マキの「夜が明けたら」で心を掴まれた。音吉で飲んでいる時だ。イントロのシャウトでグラスを持つ手が止まった。ボリュームを上げてくれと頼んだと思う。体が一瞬で聴く体勢になった。ハスキーで生意気で色っぽくて寂しい声。すごい、、、カウンターに肘をつき項垂れた。この街を象徴していた。酒匂が歌うと聴いたことのある曲も、歌詞がより深く入ってきた。聴いていると記憶が蘇り呼吸が上手くできず、吐く息が喘ぎ声のようになる。笑ってしまうほどの衝撃。生涯の伴侶を見つけた気分になったのを思い出していた。
口説かないが、いずれ口説く女にこれから会う。煙草を踏み消して先輩に続いた。
新宿ホリデーのあの夜、扉を開くとたくさんの人だかり、陽気な色と音楽と煙草の煙にまかれていた♪。尾崎もびっくり。最高のパーティー。チケットはオールスタンディングで4,500円くらいだった。
誰もがステージを見つめている。酒匂のバックバンド「新宿コネクション」が演奏をはじめていた。錚々たる面々の中にトムさんがいる。客は酒匂みゆきの登場を今かまだかと待っている。バーカン前で全身豹柄男がうるさい。特徴もないのに。どうでもいいことを喚き酒を飲み笑う。待ってませんと言わんばかりに。
拍手と歓声が上がり一気に湧いた。酒匂がステージに現れた。ドレスやステージ衣装ではなく、黒のパンツスタイルに黒のハットを被った、少し地味な格好だった。酒匂はなんの迷いもなくマイクを握る。
「こんばんは」
話し声もハスキーだ。関西訛りがイメージ通りで嬉しかったし、想像より若く綺麗に見えた。
「今日は来てくれてありがとう」とかなんとか言っていたと思う。顔を拝もうと客の間からステージを覗き見る。
「それでは聴いてください」
酒匂を見守るバンドの眼差しに、トムさんの佇まいや酒匂の緊張感が羨ましく思えた。グラスの酒を飲み干し、ステージから目を逸らす。ゆっくりと瞼を閉じ呼吸をひとつする。眉間を緩め意識を耳に集中させる。
歌声は思った以上だった。呆れてしまった。シャウトが最高すぎた。これでライブ嫌いなんてツンデレすぎる。嬉しくてたまらない、隠し切れない犬の尻尾。自然と微笑んでいた。そして昔の女をこんなに甘酸っぱく思い出せるものかと。俺は昔の女カノンを探すのをやめた。シンガーに恋しやすいのかもしれない。それと誤魔化したくないから書いておくが、あまり覚えていない。抱くつもりのない女に興味はない。惚れたのは声であってガワじゃない。特徴もないのに全身豹柄の男が印象的すぎて、思い出し思い返すほど豹柄になっていく。もうやめる。
1時間ほどの出来事だった。
ライブの後にトムさんが酒匂に会わせてくれた。イベントが終了し蛍光灯が点いて撤収のタイミングだった。ハットを被り赤いサテンのシャツがはだけたトムさんが酒匂を連れてきた。酒匂はジーパンにスカジャンでキャップを目深に被っている。
「こいつはラッパーの鬼」
缶ビールを持つ手で俺を指差し言った。なんかご機嫌だった。
「はじめまして鬼です。ライブ最高でした。また来ます。今度トムさん経由で連絡します。何か一緒にできれば嬉しいです。よろしくお願いします」ぐらいの会話だったが、正直なところ口説きたかった。酒匂は目深に被ったキャップの奥からこっちを見て「ありがとうございます」と答え軽く会釈してきた。歌ってほしい歌があると言いたかったが、まだ書き上がってもいない曲のことを初対面で話してもアホなだけだ。一瞬ヤっちゃうかと思ったがヤったら終わりだ。いやらしい目で見たことがないし見えたこともない。なにより歌ってほしかったしもう一度あの曲を聴きたかった。
そして俺はこの後すぐ逮捕された。2度目の懲役は甲府刑務所で1年だった。
心身の健康を取り戻し出所した俺は音吉に来ていた。店はカウンター6席の小さな店に見えるが、2階にボックス席1つと3階は倉庫だからやっぱり小さな店だった。だがこの街の木造長屋で3階があると聞くと、歴史も相まってかなんだかワクワクする。2階でお楽しみ中にガサが入れば、3階の窓からチンコおっ勃てて逃げ出した馬鹿がいるかもと、馬鹿が笑う。そして馬鹿は謝ることが多い。
「トムさん、あらためてすいませんでした。大事な約束だったのに……しかも前日に逮捕されて連絡もできず、、、ほんとにすいませんでした」
ちょうど1年前に、バンドの初顔合わせでリハーサルスタジオに入る前日のこと。その日も前の晩からゴールデン街で遊んでいた。帰路についた午前10時頃、靖国通り沿いにあったはなまるでうどんを啜った。店を出たところで職務質問を受け、大麻所持及び覚醒剤使用で逮捕されてしまった。
「びっくりしたけど戻ってくると思ってたよ。あの日カッキーにも会えたし。なにより元気でよかった」
申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、酒匂のことが気になっていた。
懲役中に娑婆で「小名浜」を出した経緯や、刑務所で書いてきたリリックをまとめ1stアルバムにしようと思っていること、バンドの1stアルバムの構想。懲役までツケの催促をしてきた時の気持ちやらなんやら話題はつきないが、ふとした沈黙を埋めるように、煙草を灰皿で揉み消した。
「酒匂さんと連絡とるにはどうすればいいんですかね」
グラスの茶割りを飲み干し、伸びてきたトムさんの手にグラスを渡し「水割りにしてください」と伝える。
「水割りチェンジね。OILは知ってるか」
新しいグラスに氷を入れ二階堂を注ぎ水で満たす。
「行ったことないけどわかります」
ステアする指先を見ながら、この指がピンゾロのベースを弾くのだと、期待と喜びがジワる。
「おさむさんが窓口やってるよ」
黒髪ロングにサングラスをかけた180センチオーバーでバイク乗りの先輩。話しかけようなんて思ったことはないが会わないことにはプランが進まない。何度か同じ場面に居合わせたことはあるが話したことはない。おさむさんに認識されているのだろうか。
OILの文字とハーレーがデザインされた看板はついていた。1番街とまねき通りのT字路。数日後おさむさんに会いにOILへ行った。恐る恐る扉を開ける。
「いらっしゃい」の声と同時にカウンターに立つおさむさんと目が合う。一瞬お前は誰だ的眼差しを感じたが、グラサンだからわからない。目を逸らさず後ろ手に扉を閉めた。
「はじめまして、音吉のトムさんの紹介で来ました。ラッパーの鬼と申します」
「あぁ、聞いてるかも。トムの後輩の。座りなよ、何飲む」
「ありがとうございます。ビールください」
「はいよ」
椅子に座りカウンターに携帯電話と煙草とライターを重ねて置いた。それに並ぶように灰皿が置かれ、それより手前に敷かれたコースターにグラスが置かれた。冷蔵庫で冷やしていたのだろう白く曇りはじめている。銘柄はアサヒ。どこで飲んでも毎晩美味い。
「トムの……音楽関係の後輩なの」
「いえ、久でバイトしてた時があるんです。その頃トムさんと会って、今は一緒にバンドやってます」
「米さんのとこにいて、今はミュージシャンか。久は今も行ってるの」
「はい、ほぼ居ます」
「暇なんだな」
なんとなくの自己紹介も終わり、おさむさんのグラサンに度が入っているのを知ったあたりで本題に入った。
「今日は酒匂さんの件で来ました。ちょっと前に音吉で教えてもらったのがきっかけで酒匂さんを聴くようになって、1年前の新宿ホリデーのライブも最高でした。それで酒匂さんと楽曲制作できるかトムさんに相談したら、おさむさんが窓口だと聞いて、お邪魔しました」
おさむさんはロックグラスにボトルを傾ける。ゆっくりと注がれる液体に話題をかき消された気分になった。
カウンター内のボトル棚にはジャックダニエルだけが隙間なく並び、全て
のボトルネックにネームプレートが掛けられている。背にしている壁には故松田優作主演の映画ポスターが貼られ、カウンターの隅には黒電話があった。「二階堂の水割りください」とは言えない。
「大手芸能事務所と契約したとかしないとか……よくわかんないんだよ。あいつ連絡してこねえから」
「マジか……」
おさむさんが微笑んだように見えた。
「まぁ……話してくれたし、鬼のことも知れたし、直接やりとりしてみなよ」
「わかりました。ありがとうございます」
酒匂の所属事務所の裏事情やゴールデン街の世間話、製作する楽曲のイメージや構想など話すうちに酔っぱらった。ジャックダニエルのソーダ割りがうまかった。少し話を逸らすが、その後数年の間、年一でOILに通う日ができた。松田優作さんの命日に「灰色の街」を作曲した李世福さんの弾き語りがあった。
今は看板を消し鍵も閉め会員制になっている。扉の向こうの細路地は外人さんがバウンスしている。色々と面倒があったのはすぐにイメージできた。黒電話を鳴らして鍵を開けてもらう。そして案の定「はい、工藤探偵事務所」と言っている。慣れるまで笑う。