【TOKYOバカ一代 外道伝】「かっぱらいのプロ」逝く。アル中泥棒マナブの人生(その1)
なぜか昔から、市井に暮らす、名もなきバカが好きだった。
マナブもそんなバカの1人である。これまで多くのバカと付き合ってきたが、こいつはその中でも最上位に位置する“本物”だった。
2020年1月初頭、酒浸りの正月を送っていた私の携帯電話が鳴った。世田谷署の刑事からだ。そしてマナブが部屋で孤独死したことを伝えられ、現場検証の結果、事件性はなかったが、屍体は吐瀉物と血に染まり、ガリガリの骸骨のようだったと刑事は生々しい遺体の状況を淡々と語った。腐臭に気づいた近隣の通報で発見に至ったのだという。享年46、病死。緊急連絡先として財布に私の電話番号のメモを入れさせておいたので、警察から私に第一報が入ったのだ。遺体は死後1か月ほどが経過していた。冬だが、エアコンがつけっぱなしになっていたため腐敗が進み、蛆が湧いた。
マナブはここ10年間、完全なる無職で、最後の数年間は生活保護で食いつないでいた。酒と女が欲しくなれば、万引きとかっぱらいで臨時収入を得た。
「給料(生活保護費)だけじゃ、やってられませんよ。人間誰しも生きる楽しみが必要ですよ」
そんなクズな言葉を吐きつつ、その足で肉のハナマサに行き、和牛300グラムを懐に忍ばせて猛ダッシュするマナブの姿が思い出される。
最後に奴と会ったのは死体発見の2か月ほど前だった。げっそり痩せこけたマナブは、部屋でひとり、角瓶を抱えて上機嫌だったが、部屋中に死臭のような、不吉な匂いが充満していたのを覚えている。すでに死人同然だったのかもしれない。
マナブの死を聞いたとき、私は悲しみよりも、安堵の気持ちを覚えた。病躯と孤独と、不甲斐ない自分の境遇、情けない性向に苛まされながらも、私の前ではいつもおどけて笑っていた。それが痛々しかった。やっと楽になれたな。そう思い、ほっとしたのだ。
コロナ禍が吹き荒れる直前の日本から、ひとりの名もなきバカがこうして消えた。今、私はマナブのいない世界を生きている。
それでは、この大バカ野郎の、マヌケで、アホな、ちょっとほろ苦い、悲哀に満ちたデタラメの半生を振り返っていこうか。
居候の居候
マナブと本格的に付き合いはじめたのは、忘れもしない、2006年の夏だ。
当時住処を失った私は後輩ライターK君のアパートに酒持参で遊びに行き、そのまま居候を決め込んだ。仕事はほぼなく、日に日にK君の顔色が曇っていくなか、このままではまずい、形だけでも働く素振りを見せなければと、知り合いの中国エステのママから「ブツ」を仕入れた。と言ってもヤバいものではない。「ひっつき水風船」(正式名称は知らない)だ。液体の入った野球ボール大の風船を壁に投げつけると、ぺたっとひっつく。ただそれだけの間抜けなおもちゃだ。ママはこれをネット販売していたがまったく売れず、大量に在庫を抱えていた。売り値はたしか1個400円ほどだったが、私は値切りに値切って1個5円でまずは300個仕入れ、“販売助手”としてマナブを呼び寄せた。
奴は当時、先輩が経営する諏訪湖近くの喫茶店でウェイターをやりながら、先輩の指示でアパートの一室で草を育てていたが、毎日のように勝手にバッズ部分を摘み取り、四六時中自分で嗜んでいたことから先輩との折り合いが悪くなり、出奔には最適なタイミングだったようだ。「一緒にひっつき水風船、売ろうぜ」と電話すると、「最高ですね。でも俺、部屋借りるカネ、ないですよ」と嬉しそうに言った。
「住むところは何とかする。とりあえず上京してこい」
マナブの動きは速かった。先輩の喫茶店のレジから交通費として数枚抜き取ると、翌日にはもう諏訪湖を後にし、夕方、K君のアパートがある新小岩駅にやって来た。
彫りの深い、男前な顔をくしゃくしゃにして、マナブは90度の角度でお辞儀した。
「固苦しいな、おい」
「先輩、お久しぶりです。これ、つまんないものですけど、土産代わりです」
そう言うとマナブは俺の手に、紙で巻かれた煙草のようなものを握らせた。
「相変わらずだな、お前」
駅前の交番近くで巻き物を渡してくるバカに困惑しつつ、近くの一杯飲み屋にしけ込んだ。店先で豚、牛の臓物を盛大に焼いていて、どぎつい煙をもうもうと吐き出している。とりあえずビールで乾杯すると、私は言った。
「あのな、住まいは心配するな。俺が用意した」
居候中のK君の部屋のことである。
「さすが先輩、ありがとうざいます」
こうして居候が居候させるという生活がはじまった。もちろんこの時点ではK君の許可はない。私はマナブを部屋に連れて行った。(つづく)