「否」の行方

朝 きちんと背を伸ばし
金文字で社名をかいたドアーを押す
夕刻 人の流れにもまれながら懸命に帰宅
ころっけ みりん乾しなどを食べる。
それから寝る前に小さな声で
お前よ 世界よ 「否だ」
と呟く。
けれども陽はまた昇る、のである。

人殺しはやらなかった。
尖った鉛筆で細かい数字を沢山かいた。
火つけはやらなかった。
気付かれないようにスカートの下の円い膝を眺めた。
盗みはやらなかった。
給料日にポケットを何回となく叩いて帰宅。
それで寝る前に口のなかで
「否」と呟いた。
だが これが「否」ということなのか──「否」。
朝 冷たい牛乳を飲みながら
いつの間にかもう小学校へ通いはじめている息子に話す
 飢えはほんのひと齧りでも嫌な味がする
 それから脱け出そうとする者は餓鬼の道を通る
 貧乏は剃刀で勇気の根っ子にさあっと切り傷をつける
 だから勇気をふくらもうとすると
 すうすうと傷口からぬけでていく勇気がある
 そこから窓のむこうの空を観る
 すこうしばかり飢えを齧らねばならなかったお父さんは
 すこうしばかり人殺し
 ちょっぴり心に傷口を開けているお父さんは
 ちょっぴり火つけ おろおろ強盗
 だから やがて大きくなった君に
 「否」の標本として背中からピンを刺し通される
 ああそれがたのしみだ
 というたのしみしかもてぬ
 夢みる 君がたててくれる虫ピンが
 ぼろぼろに腐れて消滅してしまう日を。
それからまたタイムレコーダーに名札をおろす
昼食にぎょうざを頬ばり 下腹をおさえる
灯の下でビールの泡をふき
さしつ刺されつ そういってみつつ帰宅。
そうして寝る前に小さく「否だ」と呟いたが──。
本当に嫌になった
どういいつくろってみても駄目だ
「否」は「否」!
そう声をたててみると
「否だ」ということで生き生きと生き返り
生きることへの決意を湛え得たはずなのに
いつしかそれが
決意を納める骨壺になってしまっているらしい
繰り返した言葉はよどんだ沼となって
その上に立つ者を沈め
「否」という言葉が 組合った棒と板となって
それを掲げる者をへだて
寝る前に「否だ」いっただけ
悪い夢がどんどん積み重なっていくらしいのである
それならもう「否だ」ということは止めるべきか。
いいや「否」。
「否」といってそれに安住できないから
「否」というのはいさおしではないのだから
いくらでも繰返すほかないんだ
黙っていると無数の沈黙の胞がぶっつかって

身と心を震わせる
で 「否」といいながらこの世界と抱き合って
堕ちながらもう少しもう少し「否」を
さらし報告する以外にない
そういって背を伸ばし
いってきますの手を振るのである。

こういってまたもやぼくは出かけ
こう書いてこの詩は終わり
ぼくの詩はさらに続かざるを得ないのである。

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