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あなたが虚しく過ごした今日という日は、昨日死んでいったものがあれほど生きたいと願った明日

私の父は医師です。
父は時々、「人は死ぬ時は死ぬ」と言います。
真意を尋ねたことはないですが、医師として人の命と向き合い続けてきた中で育まれた、ひとつの価値観なのかもしれません。
今、私は思います。「その通りだ」と。

大阪の放火事件以降、「生と死」について考えることが増えました。
決して私自身がどうとか、希死念慮とか、そういったものではありません。
純粋にと言うと変ですが、
「人は何故生き、そして死ぬのか」
という問いが頭の片隅を占めるのです。
真理と呼べる答えは多分無いから、不毛な問いであると分かってはいるんですけど。

そんな中、昨日、note上での知り合いが亡くなったという報に接しました。
とても悲しかった。

こういう時のマナーとしてどうなのかとかちょっと分かりませんけども、亡くなった方のTwitterを訪ねてみました。
(もし無礼にあたるなら申し訳ない。オンライン上で知人を失うという体験が初めてなのです。)

そこには、不慮の事故で亡くなったとされるその当日まで、もしかしたらその直前までの、「彼女」が生きた証としてのつぶやきが遺っていました。
必死に前を向いて生きようとされていました。

もうつらくてつらくて。




少し落ち着いた時、ふと表題の言葉を思い出しました。
ネットでチラッと見た事のある名言の類です。

あなたが虚しく過ごした今日という日は、
昨日死んでいったものがあれほど生きたいと願った明日

(趙 昌仁/小説『カシコギ』著者)

韓国の作家さんの言葉だそうです。
この言葉が、ストンと心に落ちてくるのを感じました。
何度か見た事のあるこの言葉が今ほど心に馴染む瞬間はない。それくらい、圧倒的な説得力を感じます。

そして、
「人は何故生きるのか云々ではない、生きるのだ」
と誰かに言われたような気がしました。
その声はJerryさんかもしれないし、過去の自分かもしれない。
「なんでもいいから生きなさい」って。

そういえば、休職し始めの頃、実家に帰った時に両親が、
「とにかく生きて」
と言ってくれたっけな。

アホみたいな大失敗をして絶望した夜に妹が駆けつけてくれて、
「死なんといてや」
と言ってくれたっけな。

あぁ、生きなければ。
なんとしても。
ただ生きるのではない。
今日を、明日を、精一杯生きなければ。
惰性で生きちゃ、命を与えてくれた両親にも、愛してくれる家族にも恋人にも友人にも、申し訳が立たないじゃないか。
なにより、ここまで生きた、生き抜いてきた自分自身に。


生きる理由なんか、ひとつしかない。

「私が、この世に生まれてきたから。」

私は、自分らしく歩いてみせる。
いつか死ぬ、その時まで。
それが、私ができる唯一の弔いだから。

改めて、心から、ご冥福をお祈り申し上げます。
どうか、安らかにお眠り下さい。

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じとめん
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