見出し画像

22分間の奇跡 アストル・ピアソラが目指したもの

#2007年に発表したものの再録です 。 

「a la parrillaパリージャで」。直訳すれば「網焼きの」という意味のスペイン語なのだが、ブエノスアイレスのタンゴ・ミュージシャンならば「譜面を用意せず、ぶっつけ本番の即興で」という意味で使うだろう。カラの譜面台はあたかも網焼きの網のようで、この粋な言い回しの由来となっている。

 ただ、譜面を使わない演奏は、えてしてある程度単純なものへと落ち着きがちである。丁度、複雑な計算は暗算では処理できず、どうしても筆算することが必要になるように。「パリージャで」の演奏が一般的だった1940年代、タンゴ界にもこのこと故の閉塞感があり、これを打破するために、譜面を読み書きし音楽の理論を学ぶべきだと考えた20代の青年がいた。アストル・ピアソラである。彼は、アルゼンチンのクラシック界を代表する作曲家であるアルベルト・ヒナステラに作曲を習い、さらにはパリへと渡りナディア・ブーランジェへと師事することになる。

 ブーランジェは20世紀音楽史における比類ない名教師として知られている。どれだけ多くの音楽家が、このストラヴィンスキーの友人でもあった教育家の下より輩出されたことだろう。彼女のもとで、ピアソラは伝統的なクラシック音楽の作曲法を厳しく仕込まれていく。しかし、その一方で、ピアソラはブーランジェに自分がタンゴの音楽家だったことすら告白出来ずにいたのだった。彼がかつて所属した、当時一流と謳われたタンゴ楽団ですら、売春宿と見紛うようなキャバレーで演奏していたのであり、ピアソラはこうした出自を師に知られたく無かったのだ。

 一方、ブーランジェは、ピアソラが持ってくる作品が、良く書けてはいるものの決定的な個性に欠けていると感じていた。書き方を教えることは出来る。だが、教師に出来るのはそこまでで、表現の核になるものは自分で掴み取るしかない。そのことを誰よりも理解する彼女は、ピアソラにアルゼンチンでどんな音楽をやっていたのかと問うた。ピアソラは逡巡しつつも、ついに自作のタンゴの一節をピアノで弾き出し応えた。これに対するブーランジェの一言は、彼女がいかに素晴らしい教師であったかを、長く後世に伝える一言でもある。「ここに本物のピアソラがおり、あなたは決してそれを手放してはならない」。

 偉大なタンゴの作曲家:アストル・ピアソラ誕生の瞬間である。また、このことはブーランジェらに仕込まれた高い技術をもってタンゴの伝統が洗いなおされることをも意味した。ただ、ピアソラが書く譜面は確かに際立った密度を持つが、決してそれだけに終わることはない。楽譜はさらなる即興演奏へと飛翔するための土台でもあり、「パリージャで」の演奏を補完するものである。1986年、ウィーンのコンチェルトハウスで演奏された「AA印の悲しみ」(独 messidor 15970-2)では、白刃の上を渡るような即興の緊張が、室内楽的緊密をもって積み上がっていく。まさに20世紀音楽の至宝ともいえる22分間である。

いいなと思ったら応援しよう!