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真正のポストミニマル音楽を目指す スティーヴ・ライヒ作品の解説に代えて

ポストミニマル音楽がとにかく苦手だった。

大阪万博(もちろん前のだが)の前年に生まれた筆者ゆえ、音楽における進歩史観を妄信できる世代ではもはやない。しかしながら、戦後前衛を彩った名作の、音楽が音楽として成立し得る境界線を探る気迫であるとか、そうした探求が際立った緻密さで裏打ちされている様であるとか、数々の驚くべき成果に比べ、ポストミニマルの音楽はあまりにも貧弱に思えた。

もっとも苦手だったのはマイケル・ナイマンだ。ミニマル音楽に関する著書もあるこの作曲家は、ちょうどジェーン・カンピオンの『ピアノ・レッスン』(1993)の音楽を担当したこともあり、ナイマンやその周辺の作曲家のちょっとしたブームが起こった。そうした状況は筆者には正直全く理解不能で、CDショップの棚でNonoとNymanが隣り合っていることに耐えられず、間に1枚挟んで帰ったことだってあった。かつては坂本龍一だって、「ナイマンだけは許せない」と語っていたじゃないか(確か、ユリイカのグレン・グールド特集での、浅田彰との対談の中での発言だった)。アカデミックな作曲教育を受けた坂本にとって(アカデミックであるということは、歴史の重圧を背負うということでもある)、ポストミニマルの潮流が我慢ならないものであったことは、今ならよく理解できる。

それではなぜ、そこまでポストミニマルが気に入らなかったのだろう。ミニマル本流のライヒについては、アメリカのクラシック畑の作曲家五傑に挙げる(ちなみに残りの4名は、アイヴズ、ガーシュイン、ケージ、フェルドマンである)ほど、高く評価している筆者なのに。ただ、本コンサートを主催するCIRCUITを組織し、ポストミニマルとは異なった観点から反復をテーマに据えて活動する作曲家、鈴木治行と仕事をする中で、その理由が次第に明確になってきたように感じている。

スティーヴ・ライヒ《2×5》リハーサル風景

CIRCUITでは昨年より、「ミニマリズムとその周辺」というシリーズをはじめ、今回がその2回目となる。このシリーズの肝は、ミニマリズムの本質を様々な角度から検討し、その伝統を洗い直すことにあった。現状、音楽におけるミニマリズムは、繰り返し語法と不可分のように考えられている。オスティナート語法やギターのリフのような単純な繰り返しさえ、ミニマル的と評されたりもする有様だ。だが、ミニマルという言葉は、「最小限の」という意味しか持たず、美術におけるミニマルアートや、ライフスタイルによるミニマリズムを参照すればわかるように、「繰り返し」という意味を全く含まない。「最小限の」素材で一定の時間的持続を作るための方法論が、繰り返しであるに過ぎないのだ。よって、たとえば近藤譲の《スタンディング》には、明確な繰り返しこそないが、一つの旋律線を3つの楽器がひたすらホケット(散奏)で演奏していくという絞り込みゆえ、まぎれもないミニマル音楽であるし、一柳慧の《ピアノ・メディア》がミニマル的なのは、右手の9連符の走句がひたすら繰り返されるからではなく、その走句に対して音価が増減する左手を重ねていく、というコンセプトが終始徹底されているからなのだ。

ならば、ミニマル音楽において重要なのは、「繰り返し」を行うにせよ、素材をミニマルな=最小限の要素と捉えいかに音楽の文脈を形成していくか、という点に他ならならず、繰り返しを自明としてしまっては、ミニマル=最小限の、という拘束条件によって生じていた表現の強度はあっという間に霧散してしまう。よって、現状ポストミニマルに分類される音楽の多くは、「ミニマル」ではない別の何ものという他ない。要素やコンセプトの絞り込みによって音楽を際立たせる努力、なにより、発想、アイディアが重要で、それならばこそ美術におけるミニマルに通じる表現の強度を纏う。さもなくば、繰り返しの乱用は、コピー&ペーストによって構成された不出来な学生のレポートのように、あっという間に陳腐化してしまい、坂本龍一に「○○だけは許せない」といわれる羽目に陥るのだ。

ゆえにCIRCUITでは、初期ミニマルの様々な音楽を検討し、そこに汲みつくされていない可能性を見つけ、「ミニマル」なコンセプトの発展形としての、真のポストミニマル音楽を屹立させるべく努力している。では、そうした我々にとって、スティーヴ・ライヒとはどのような作曲家であるのかだろうか。実は、今回演奏される《2×5》は、この点を能く説明するサンプルとなっているのだ。

《2×5》は、二本のエレキギター、エレキベース、ピアノ、ドラムスのアンサンブルを、もう一組同じ編成のそれ(実演でも録音でもよく、今回は演奏メンバーによって事前録音されたものが使用される)と対照させる作品で、ライヒの諸作でももっともポップミュージックに寄った編成による。会場にお越しの方々は、ステージ上のセッティングをご覧になっているはずだが、それはもはやクラシック/現代音楽のコンサート会場ではなく、完全にライブハウスのそれだ。

ゆえに、”rock and roll piece"などと呼ばれてきた作品である。しかしながら、この作品は「ライヒによるポップミュージック」ではない。ライヒも監修したCD音源から受けるのは、ポップミュージック的なグルーヴとは完全に異質な、空間をパターンで埋めていくような、ある意味静的ともいえる印象である。ライヒの作品は「ポップ」かもしれないが、そのことは「ポップミュージック的」であることを意味しない。ロックの楽器によりつつも、あくまでも自分の流儀に忠実にスコアをパターンで埋めていく姿勢は、松平頼暁がエレキギターソロのための《Ostinati》で聴かせたそれとも重なる。それは、ライヒという作曲家が反復に対して持ち続けている、ストイシズムのようなものに他ならず、そのストイシズムこそが、反復語法を「ミニマル音楽」のうちに留め、ライヒを特別な作曲家としているのである。

このストイシズムは、演奏家が対峙する大変高い壁ともなる。人気作曲家であるライヒに管弦楽曲が少ないのは、ライヒがオーケストラを、このストイシズムを担保するメディアとは、もはや見做していないからだ。ライヒ作品の演奏では、整然とならぶパターンを、極めて高精度でリアライズしなくてはならない。このストイシズムゆえに、ライヒの音楽には、演奏家の個性は反映しにくいようにもみえる。ポップなグルーヴというものは、一種の訛によってこそ齎されるから、ライヒの音楽には一般的な意味でのグルーヴは発生しない。だが、ライブで演奏する以上、観客を巻き込むような熱気というものが、どこかに必要となるものだ。それは、ポップミュージックのようなグルーヴとは異なるものとなるだろう。それでも、ライヒが作品に込めた、そのストイシズムと対話し、長い持続の中を保つなかで形成される「グルーヴ的な何か」を生み出す可能性へと賭けていきたい。究極のストイシズムの果てに啓かれる愉悦。それこそが、現代音楽の演奏家がライヒに取り汲む意味、ということになるに違いない。

ニューヨーク・カウンターポイント(1985)
New York Counterpoint

増幅されたクラリネットと、事前録音されたテープのための。あるいは、9本のクラリネットと3本のバスクラリネットのための。
初演:1986年1月20日 エイヴリー・フィッシャー・ホール リチャード・ストルツマン

エレクトリック・カウンターポイント(1987)
Electric Counterpoint

エレキギターと、事前録音されたテープのための。あるいは、エレキギターと12本のエレキギター、2本のエレクトリック・バス・ギターのための。
初演:1987年11月5日 ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック パット・メセニー 

2×5(2008)
2本のエレキギター、エレキベース、ドラムス、ピアノと、事前録音されたテープのための。あるいは、2群のアンサンブル(それぞれ、2本のエレキギター、エレキベース、ドラムス、ピアノにて構成)のための。
初演:2009年7月2日 マンチェスター・ベロドローム(室内自転車競技場) バング・オン・ア・カン

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