世界はそれを愛と呼ぶんだぜ
12月4日(日)、松平敬、工藤あかねによるシュトックハウゼン他の公演へと出かけた(於:Tokyo Concerts Lab.)。メインプロであるシュトックハウゼン《空を私は歩く》が始まってよりのしばらく、私の頭の中を巡っていたのは、バーンスタインのミュージカル《ウェストサイド物語》のことだった。なぜなのか。
私はバーンスタインの最高傑作は、「一周回って」《ウェストサイド》だと考えている。一周回ってというのは、バーンスタインの作品について詳しくなるにつれ、彼が《ウェストサイド》だけの作曲家ではないことがわかってくるからだ。たとえば、3曲ある交響曲、とりわけ交響曲第3番《カディッシュ》はどうだ?あの破天荒な《ミサ》は?ミュージカルではない本格的なオペラ《静かな場所》もあるぞ。若書きの《クラリネット・ソナタ》だって、なかなか素敵な作品じゃないか。
ただ、残念ながら、私にはバーンスタインの《カディッシュ》にはブリテンの《戦争レクイエム》ほどの、《ミサ》にはベルント・アロイス・ツィンマーマンの《若き詩人のためのレクイエム》ほどの魅力は感じられない。他の作品についても概してそんな感じなのだが、それでも《ウェストサイド物語》だけは、他の作曲家には決して書けなかった、このジャンルにおける金字塔である、と考えている。
よくよく聴きなおしてみると、このミュージカルはかなり破格だ。「アメリカ」での冒頭の変拍子、主部の複合拍子。「トゥナイト」のアンサンブル版冒頭の《春の祭典》を思わすバス・オスティナート。そのあとの、4人の主要登場人物と2組の不良少年団(つまり6声)がポリフォニックに歌い上げる部分。「クール」中間部の十二音列によるフーガ。そして、「マリア」メインパートの増4度の跳躍。通常のミュージカルにはあり得ないような語法の連続であり、それゆえに、当初は誰も、もちろんバーンスタイン自身すらも、《ウェストサイド》が大ヒットし、世界中でロングランし、映画にもなる、などとは、夢にも思っていなかったという。
なかでも注目すべきは「マリア」である。このナンバーは、主人公のトニーが対立する不良少年団のボスの妹マリアと出会い、一目ぼれした後に歌いあげられる。ダンスパーティでその姿を目にして以来、トニーの頭の中は、マリアのことで一杯。「Maria」という「The most beautiful sound I ever heard.」が渦巻き、ついには「Maria~」とその名を朗々と歌いだす。
問題はこのフレーズに含まれる音程だ。ハ調で書くなら「ドファ#ソー」。つまり、「マリア」の「マ」と「リ」の間に主音からの増4度の跳躍が存在している。増4度は三全音(全音3つ分)ともいい、中世では悪魔の音程ともよばれた不協和音程である。ダイアトニック環境(ドレミファソラシの7音のみを使って得られる音組織)の中では、ファとシの間にしか存在せず、機能和声では属七の和音(ソシレファ)から主和音(ドミソ)への解決感を演出し、ポップミュージックの言葉でいうと、いわゆるツーファイブワン(II7→V7→I)のコード進行の推進力を担保する。要するに、この強烈な不協和が解決へ向かう、という点を、旧来の和声は推進力の源泉としたわけだ。
しかしながら、近現代以降、増4度はパントーナル(汎調性)を拓く音程として多用されてくる。ストラヴィンスキーが《ペトルーシュカ》であからさまな形で使い、メシアンの「移調の限られた旋法(MTL)」にも頻出する。MTLは、1オクターブの内部に並進対称構造をつくることで、「移調の限られた」状態をシステマティクに作り出す手法で、この構造が12音音楽とは異なった道筋での調性の曖昧化をもたらしているのだが、それは別の話。
ゆえに、1950年代最新の近現代音楽の文脈では、増4度の音程は決して珍しいものでもなく、「悪魔の音程」と忌み嫌われるものではもはやなかった。しかし、ミュージカルをはじめとするポップミュージックの世界で、いきなりこのような跳躍で始まるフレーズが存在したことがあっただろうか。発表当時(1957年)、このフレーズは、今感じられているより相当奇異に響いたに違いない。バーンスタインは、この異様な跳躍に「The most beautiful sound I ever heard.」たる「Maria」の語を載せた確信犯だったのだ。
それがどれだけ大きく危険な博打であったか、様々な音組織によるポップミュージックに慣れた私たちにはもはや想像もできない。ただ、バーンスタインはこの賭けに勝利し、《ウェストサイド物語》は、彼のもっとも有名な作品となった。「マリア」は、アメリカの音大で増4度音程について言及される際、かならず例に引かれるという。
さて、ここでシュトックハウゼンの《空を私は歩く》に戻るとしよう。この作品は12音のセリーによる全12曲の作品で、1曲目ではセリーの最初の音のみが使用され(つまり単音による作品である)、2曲目は最初の2つの音、、と、曲が進むにつれ使用される音が増え、終曲では12音すべてが動員される。同様の趣向は、リゲティのピアノ作品《ムジカ・リチェルカータ》にも聴かれよう。
注目すべきは、そのセリーが、冒頭からC、F#、G、E・・・という具合に並んでいることだ。この冒頭4音のみを取り出してみれば、バーンスタインの「マリア」の例の箇所で聴かれるフレーズと同じ音が同じ順番で並んでいることがわかるはずだ。
これはおそらく偶然ではないのだと思う。冒頭4音のセリーの選び方は11×10×9=990通り(移調を度外視し、冒頭の音からの関係のみを考える場合)。要するに、ランダムに音を選んだ場合、これがバーンスタインの「マリア」のフレーズと一致する確率は1/990しかない。加えて、シュトックハウゼンの《空を私は歩く》は、全編が英語の歌詞により、そして何より、愛についての歌でもある。このセリーの設定は、バーンスタインの人気作に隠れた過激な創意に意気を感じての、シュトックハウゼンなりのオマージュだったのではないだろうか。私にはそう思えてならない。
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かつて「悪魔の音程」と呼ばれた増4度は、かくして愛を表現する音程となった。さて、このエントリーの表題はサンボマンスターの曲名から借用したものだが、この「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」にもまた、歌いだし、あるいはサビの部分に、コードのルート(根音)が増4度で推移する箇所が仕込まれている。
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