あの日から

とある民家の一室で座りながらボーっとしていると、入り口から一匹の雑種猫がこちらに近づいてきた。

猫は、俺が食い終わって空になったサバの缶詰の匂いをひとしきり嗅いでから、底を舐めた。

俺はゆっくりと立ち上がった。

「そんなものよりお前ら猫どもにはもっといいものがあるぞ」

俺は鞄からキャットフードの缶詰を一つ取り出して、つまみを取り開けてやった。それを猫に差し出すと、すぐに寄ってきた。

あっという間に全部食べ終わり、喉を鳴らしながら、あろうことか俺に近づきじゃれてきた。

猫はとても嬉しそうだった。

俺はそいつの前足を持って、爪を立てさせ、俺の右手を引っ掻かせるようにグイと押し付けた。

少しだけ鈍い痛みが走った。しかし、それだけだった。

続いて、猫の口元に手を入れてみた。猫は甘噛みをするだけだった。そして俺の体には何の変化もない。

「やっぱりダメか…………」

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あの日から3週間。

その間俺は、徒歩と自転車で、近所を見て回った。

人間は影も形もなし。犬すらも見なかった。いるのは猫、猫、猫。

ただし鼠はいた。小鳥はいた。虫もいた。トカゲもいた。草花に至っては以前より生い茂っていたくらいだ。

市内の動物園に入ってみたら、ネコ科であってもライオンやトラといった大型の肉食獣は全て消え去っており、象、キリン、シマウマ、のような大型の草食動物、ワシやタカもいなかった。というか、動物園には檻の外を歩き回っている猫しか脊椎動物がいなかった。飼育されていたウサギやモルモットといった小型の動物に関しては、おそらく消えなかったのであろうが既に猫達に捕食された後だったと思われる。

要するに、猫が生息するのに都合の悪い生き物はみんなこの世から消え去ってしまい、それに対して食物連鎖で猫よりヒエラルキーが下の生き物は消滅を免れたようだ。猫及び猫の獲物であるげっ歯類や小型の鳥類、加えてそれらの主食となる小さな生き物や植物は、繁栄しているというわけだ。

しかし、このままイエネコやノラネコが、長い間人間によって支配されていたこの地球上において、新たなる覇者として居続けられる未来が、そう長く続かないであろうことは火を見るよりも明らかだ。

さて

俺は空腹を満たすため、よく近くのスーパーマーケットを利用する。もちろん店員や警備員はいない。

どの店の中も、まず、生鮮食料品の類は、あの日から一日足らずで全滅。肉、魚はもちろん、果物や野菜にも猫や虫がたかっているという、目を覆いたくなるような修羅場と化していた。中には、玉ねぎ置き場の前でぶっ倒れているバカな猫の死体に、ハエやゴキブリが巣食い、著しい腐臭を放っているというケースもあった。天井にはカラスが舞いつつ、猫の攻撃を巧みにかわしながら食料を横取りしようと手ぐすね引いている。

なので店に入る際は、必ず防護服としてツナギと長靴、マスク、ヘルメットを着用し、大型のリュックを背負て、缶詰置き場へ直行し、直帰する。自分用の食料だったらリュックに目いっぱい詰めれば一か月分はもつが、何かの役に立つだろうとペットフードの缶詰も持ち帰っている。

コンビニも似たり寄ったりで、スーパーと違って入りやすい場所にあることが多いため、むしろ猫達の良い宴会場にされている。

俺としては、猫はともかく、虫やカラスの類は見たくない。ということで、スーパーでなく大型ビルの上階にある100円ショップに足を運んだこともあった。100均なら生鮮食料品が置いてある店は多くない反面、缶詰は豊富にあるので、うってつけだと思ったのだ。さすがにビルの屋上近くの階までは動物たちも上っては来まい、と思っていたのだ。

しかしそこは、俺の予想と反して、スーパーやコンビニなんかよりずっとひどい有様だった。

ビルの上階にある100円ショップの店内は、猫でなく鼠によって荒らされていた。

鼠どもは猫がいないのをいいことに、お菓子や乾燥肉のパックや袋を食い破り、貪欲に食していた。その鼠が食い散らかしたお菓子に、害虫がたかる。またカラスや土鳩といった雑食の鳥類、何故だか知らないが蝙蝠の群れまで我が物顔で飛び回っていた。

俺は一応その時も防護服を身に着けていたが、正解だった。正解どころか、ツナギやマスクなどといった軽装備のまま、こんなところに長くいると病原菌を媒介される。俺は早々に階段を下り、何も持ち帰らずその場を後にした。

あとは、店であれ人家であれ、建物の内部といえば、コンビニと同様だいたいが猫に占拠されていて、やはり絶好の溜まり場と化している。食料があろうがなかろうが、どこも似たり寄ったりだ。

本当に、猫はどこにでもいた。屋内でも屋外でも。

俺は猫以外の小動物や虫、カラスといった不衛生な生き物は嫌いだ。だから、猫がたくさんいて尚且つ害虫が湧かなさそうな、食料品の置いていない店内や人家をよく休憩所や寝床にしていた。猫は、鼠や鳥から俺を間接的に守ってくれるし、ましてや猫の方から俺に危害を加えることは絶対にない。最近、猫を触ったり抱いたりしない日はないが、ノミや寄生虫といった類が――それらも死滅したのかどうかは知らないが――俺に噛みついたり病気を媒介したりすることも、今のところはない。

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全く、わからないことだらけだ。俺は猫に引っ掻かせたり噛ませたりするのを諦めた。

何故こんなことになってしまったのか。俺は尚も懐いてくる猫をシッシッと追い払い、布団を敷いて不貞寝した。

世界中を見て回ったわけではないが、確実に言えるのは、一つ。

世界は滅亡したも同然だということ。

さっきもちょろっと言ったが、こんな猫ばかりの世界ができて、それが長く続くわけがない。

空から降ってきた猫は、爪や牙といった自分の武器でもって、人間や、おそらく他の大型の動物などをも、次から次へと自分らと同じ猫に変えていった。ゾンビのように。

いかにも、これから猫達の時代が始まったようにみえるが、何故だか俺には確証があった。

これは単なる終わりの始まりに過ぎない、と。

人間の時代が終わったわけではない。天に召される何者かが、猫という生き物を使って、世界を終わらせようとしているだけだ。降ってきた猫や、今地上を跳梁跋扈している生き物どもは、聖書でいう洪水にあたる。そして今、俺だけが運よく箱舟に乗ることができている。

俺は寝返りを打った。フン、馬鹿な。そんなこと考えて、俺だけがゾンビの如く猫化せずにすんで、一人こうして生き残っていることの説明が全然なされていないじゃないか。「猫に好かれる体質だったから」とか、そんなの理由にならない。俺以上に猫から好かれていたり、手懐けることが出来ていた人間なんてそれなりにいただろうし、俺以外の全ての人間が人として死んでいるのは辻褄が合わない。大体なんで猫なんだよ。この世を滅ぼそうとしている、いわゆるカミサマとかは、普通にゾンビや疫病、モンスターなんかを使って滅ぼせばいいじゃないか。なんで猫を使うとかそんな効率の悪いことしてんだよ。けったくそ。カミサマってのはよほど猫が好きなんだな――

そこまで考えて、俺はある事実に思いついた。

いや、思いついてしまった。

(……くそっ!! 違う!!)

この惨状は、俺が原因?

ふざけんなよ、俺。自虐も大概にしろ。いくら俺だって本気で世界中の人間死ねばいいだなんて考えてたわけねえだろ。大体俺にそんな力があるんだったらもっと早く嫌いな奴殺して、いや、少しでも自分の思い通りの世界を築いていたっつーの。こんな忌々しい世界なんか誰一人、そう、俺だって望んでねーんだよ。強いて言えば会社行かなくて多少マシになったくらいだ。

(こんな、同僚や上司や嫌な奴とも顔を合わせずにすんで、働かなくても自由に飯が食えて、好きなだけいろんな所に散歩に行けて、家族にも虐待されず、気ままな生活――)

いつの間にか俺の目から涙があふれてきた。

「誰も…………望んでねーっつってんだろ…………」

何故涙がこぼれるのか。

その理由を探ってみた。

幼少のころから毎日、無口で凶暴な兄に殴られていた。両親はただの兄弟喧嘩だと見做していて兄を止めようともしなかった。同級生の奴らに至っては、殴られすぎて顔がひん曲がっていた俺を物笑いのタネにしていた。それにとどまらず、俺の一家を「シンショウ家族」と呼んで、忌み嫌っていた。教師は見ないふり。俺は一人でいつも泣いていた。

誰も友達がいなかった子供のころ、俺は近所のノラ猫達と遊ぶのが好きだった。猫は、餌を持ってきているわけでもない俺によく懐いてきてくれた。俺もそんな猫が大好きだった。当時は、猫はいくらでも知らない人に懐くもんだと思っていたのだが、だんだん成長してくるにつれて、普通ノラはそんな簡単に人に懐いたりしない、という事実を知り、俺は余計に猫が好きになった。

早い話俺は、猫という生き物がこの世にいなかったら、確実に死んでいた。

だけど……だけどよ…………

涙をふき、部屋を見回してみると、いつの間にか部屋の中の猫が増えていた。

猫達はこちらを見ながら、全員フルフル震えていた。

「なんだよおまえら……」

しかし俺にもすぐにわかった。

何故いきなりたくさんの猫が入ってきて、震えているのか。

俺は窓の外を見た。

粉雪か……

意外と早く訪れたな。

全ての生き物が凍え死ぬ、そのときが。

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