家畜 第0話

   はじめに

 幼少期の僕の記憶は、大きく分けると二つに一つです。

 大人に褒められた経験と、叱られた経験です。

 僕は1982年に生まれ、ちょうど物心ついたときに弟が生まれ、また家族が裕福な時代でもありました。

 僕は大人に褒められる為、また叱られないようにする為、闘争心を剥き出しにしながら物事に取り組んできました。幼稚園でのお遊戯、絵画教室での絵の上手さ、スイミングスクールで丁寧に泳ぐことと様々です。

 3歳の頃、幼稚園の運動会のかけっこで一番になるために努力したこともありました。しかしやがてどんなに努力しても叶わない相手がいると判断したときなどは、別の分野で成功と栄誉を勝ち取ることにしました。僕はかけっこのの速いA君よりは歌を歌うのが上手い。また絵が上手でみんなから褒められているB君よりずっと明るく元気に遊んでいる。また泳ぎの上手さはC君に一歩譲るけど鉄棒なら僕のほうが早く逆上がりを覚えた、など。そうすることよって、周囲の大人たちは、「長塚さんのところの一郎君は本当に頑張りやさんですね」とか「総合的に判断すると一番いい点数を取ってらっしゃる」とか、認めてくれるのです。

 なんとはなしにわかっていたのです。子供でいる間は、大人たちに愛されなければ生きていけない。生殺与奪が握られているのですから、決して手を抜いたりして、こんな子供可愛くないから捨ててしまおう、と思われないようにしないといけないのです。だからと言って判を押したようにいい子ぶりっ子をしてもいけない。子供らしくない、などと思われても厄介なことになりがちです。例えば自らすすんでお手伝いをするとか、どうしても欲しい物があるのに全くねだらなかったりとか。面倒なことをしたくないという感情を殺してまで大人たちは本来大人がやる仕事を手伝っては欲しくないようだし、子供なのに遠慮深かったりすると、「可愛くない」「子供らしくない」などと思われてしまって、大人たちに見捨てられてしまいます。その「見捨てられる」というのは本当に恐ろしい。犬や猫が捨てられる、と聞いただけでも「可哀想」と普通の人は思ったりするのに、一体いつ、僕の親を含めた周りの大人たちが「こっそり海の底に沈めてしまおうか」と考えないとは限らないではありませんか。

 だから僕は幼少期から現在三十五歳になるまで、心が安らいだことはほとんどありません。何故なら大人が怖く、今もその時の恐怖の尾を引いているからです。そしてこの幼稚な喋り方、これだって他人の目を気にしすぎた人生を送ってきた賜物です。ただこうして自分が大人と呼ばれる年齢に達しても、きちんと責任を取りさえすれば周りの人に迷惑をかけたりせずに済むし、それが出来ない大人に手を下されたりなんかされたら、と思うと、今考えても鳥肌がたちます。

 そして僕は今、“あなたがた”に話しかける悪いきっかけを作ってしまいました。きっと蓄積された恐怖感と罪悪感が熱り立ち、今回のような行動に出てしまったのでしょう。そのことについては深く反省しております。弁解する余地もございません。

 え、“罪悪感”とは何のことか、ですって? このことは、大人たちに対する恐怖感より、もしかしたら何十倍何百倍も、僕の人生に影響を与えたかもしれません。そしてその“相手”にも。

 “あなたがた”はすでに僕と僕の家族のことを調べ上げてご存知かも知れませんが、一応僕の口から説明しておくと母と父は数年前に離婚し、それぞれ少ない賃金と少ない貯えで暮らしています。僕はご存知の通り21歳の頃に家を出て新宿の歌舞伎町で10年以上ホストをやり、暮らしていきました。

 そしてカンジンの弟は一旦自立しましたが――。

 そうです、弟があんなことになったのは、僕の責任です。ですから今回の罪状と別件で再逮捕されてもおかしくないことをずっとしてきました。弟は被害者です。今考えれば、障害をもっていたり情操教育が遅れていたりしているのならそれに見合った教育が出来ていたはずなので、そのような教育に加え、更に僕という者さえいなければ弟はどんなふうに育ったか。それはわかりません。立派な一社会人としてつとまっていたか、あるいは僕とのことなどは関係なしに、同じように人生が崩潰してしまっていたか。知る術はないと思われます。

 今の僕が覚せい剤に逃げたのと同じで何かの依存症となり、堕ちてしまっていたかもしれませんね。 

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