少年と息子
バチバチと大粒の雨が落ちはじめたバルコニー窓の外、
ぱっと強い光が部屋に膨らんだ刹那、
首筋をかち割られるような雷鳴と地響きに肩を縮め、
読みさしの本から彼は目を離し、
見遣った三人掛けソファの端に座る彼の息子は
睫毛を小刻みに震わせながら今にも泣き出しそうに
彼を見つめ、「こわい」、
ふくれた下唇からこぼした。
雷鳴に勢いづけられた雨のせいで、
テレビの音がほとんど聞こえない。
窓の外を見遣ると、彼は急いで洗濯物を取り込んだ。
日が長くなり、昨日は明るかった七時手前、
不安げな表情、その右の頬と小さな胸に抱き寄せた腕と脛に、
チカチカと移ろうテレビの色を写している。
いつの間にかうす暗くなっていた室内に、彼は照明を灯す。
暖色に包まれた室内に、
ソファを持て余し、上目に見つめる息子に寄り添うと、
その小さな脇を抱えて組んだあぐらの上に据え、
次の雷鳴を呼ぶ雨音にかすんでいたテレビの音量を上げる。
腿とふくらはぎに息子の硬さと温もりとが伝わると、
彼はふと、幼い頃実家で飼っていたゾラと過ごした
ある夏の、土砂降りの夕刻を思いだす。
――今の息子と同じ、5歳くらいの頃だったか――
ゾラも彼も濡れ、息子と同じようにゾラを抱えていた。
息子のつむじを眺めていると、
ゾラの耳の後ろに裂かれた赤黒い傷跡を思いだした。
ゾラはぶるぶると震え、その濡れた背中の向こうに
泥水で煮えたぎるだけの、何もない庭があった。
彼の脚にじかに触れるゾラの濡れた尻は妙に熱く、
情けなくまとまったその薄茶の毛から滴る雨が、
彼の細い足首をぬるぬると伝っていた。
肌にまとわりつく生ぬるい衣類と伸びた前髪のように、
あらゆる疑念、あらゆる想念に囚われていたせいか、
あのとき何で彼らは濡れていたのか、
巡らせど思い出せず、
いつの間にか雨音は弱くなり、雷鳴の気配もすでに去っている。
時計に目を遣ると、テレビに見入る息子の脇をそっと抱え
ゆっくりとソファに下ろす。
不安そうに見上げる顔に重なる、
時おり振り向いて見せるあの日のゾラの、濡れそぼった顔と息づかい。
「もうだいじょうぶ。雨も止んだろ。
今から晩ご飯の準備するから」
あのとき、何で自分は震えていなかったのか、
アプローチを変えても掴めない記憶の核心を手放し、
並べた食材を包丁で切りはじめた。
晩ご飯の支度ができ、
布巾片手にダイニングテーブルに向かうと、
息子がソファの上で横になり、両手でおなかを押さえている。
拭き終えてもなお、そうしながら息子はテレビを見ている。
「おなか痛いの?」と聞くと、
首を横に振り、ちらちらとうつむきながらはにかむ。
料理を運び終え、「ごはんだよ」、
テレビのリモコンを手に取り、画面を消していると、
息子は横になったまま、
こそこそとお腹から何かを取り出し、
すばやく背中の後ろに隠すような動きをする。
ソファの座面に腰掛け、はにかんだまま
その場を動かないでいる息子に「ほら」、
右脇の辺りをパンパンとはたくと、
背中を丸めながら、肩の高さまで上げた脚の勢いで
ソファから跳ね下りる。
背もたれと座面との隙間に突っ込まれていたものは、
その日三時のおやつとして食べた、
プリングルスの半透明の上蓋だった。
彼が料理している間、ひとり次の雷鳴に備え、
息子はそれをお腹に直接あてがい、服の上から両手で押さえ、
「かみなりさまにおへそをとられないように」、守っていた。
不可解な息子の行動に説明を求めた彼に、
息子は恥ずかしそうに、そう告白した。
彼は息子のことを愛おしく思った。
どうしたことか、その目におのずと涙が浮かんできた。
ぎゅっと縮んだ口の中、重たくなったつばを呑み、
「いただきます」の声が震えないように
彼は一度喉を締めなければいけなかった。
あの日のゾラに寄り添っていた彼によって
大人になってしまった彼に、大事な記憶を
何か意図的に隠されているのかもしれない、
彼はそんなことを思っていた。
あのとき彼を支配していた無力感だけが
今でも強く、皮膚の内側に残っている。
あの無力感が、どこかで強い意志とつながり、
自分を震えさせなかったのかもしれない。
彼はそう思いながら、息子の分の料理を装っていた。
息子と二人、夕食を食べ始めた矢先、
玄関の物音に、「おかあさんだ!」
息子が声をあげて喜ぶ。
「ただいま!」
「おっかえりー!」
息子はそのうれしさに、座ったまま尻を跳ねさせる。
箸を止め、雷鳴を除くその日の出来事を、
息子は楽しそうに、帰ってきたばかりの彼の妻に話している。
息子の向かいに座る彼は、ときおり送られる妻のまなざしに
気がつかず、日月休みの彼女の抑制された開放感と、
土曜日の母の帰りを心待ちにしていた息子を尻目に、
自分でつくった料理を、ひとり静かに食べている。
「久しぶりに早く帰れたし、今日はいっしょに
ゆっくりお風呂に入ろうね」
息子はおかずをほおばったまま、顔をしわくちゃにし
頭を激しく横に振り、喜んでいる。
「何なんそれ?」
笑顔の母にさらに応えようと、
息子は右手と左手に箸を一本ずつ持ち、
どんどん、どどどんと、テーブルを叩き始める。
「こら、あばれないで食べな」
「はーい」
彼の憎しみは、ややトーンを落とした息子の頭を
微笑みながら撫で、一旦ダイニングを後にする
妻の背中へと注がれる。
リビングに残された彼は洗濯物をたたみ、
洗面所にそれをしまいに行く。
浴室から、妻と息子の賑やかなやりとりが
温かい湯船の音に混じり、聞こえてくる。
「あれ?なんかおへそのまわりに赤い線がついてる」
あのとき、プリングルスの蓋を強くおなかに押さえすぎ、
その縁の跡がついていたのだろう。
「どうしたの?これ」
湯の撥ねる音だけが聞こえてくる。
息子ははにかんでいるだろう。
「…パパに何かされた?」
その冗談気のない問いかけを皮切りに、
彼は手に抱えていた洗濯物を
収納ケースに乱暴にしまっていた。
しばらく、浴室からは湯船の音すら聞こえなかった。
ソファに座り、読みさしの本を手に取るも、
彼の熱した頭には、ちっとも内容が入ってこない。
ドアの手前まで賑やかだった息子が
母の後ろにつき、そろそろとリビングに戻ってくる。
「パパごめんね、疑って。怒った?」
彼には妻の表情と言葉から、反省の色が見いだせない。
外はまだ、雨が降り続いている。
「ねえねえ。これ、聞いた?」
妻は彼の気を引こうと笑いかけながら、息子のお腹を指差す。
「おへそをとられないように、お菓子の蓋で
押さえていたんだって。あんたってかわいいね」
妻はふいにしゃがみ、息子に顔を近づけると、
その風呂上がりにほてったやわらかい頬をやさしくつぶす。
息子がその手から逃れようとはしゃいでいる姿まで、
彼には憎らしく見えはじめている。
「わたしが前に教えたんだよね、ね。
雷がゴロゴローって鳴り出したら、
かみなり様がおへそをとりにくるん――」
「おまえはこいつにバカみたいなことしか教えられないのか!」
二人は驚いた表情で、彼をじっと見つめた。
薄く開いたバルコニー窓から聞こえてくる
小雨の音は、無慈悲だった。
ここに悪意というものは、ひとかけらもないはずなのに。
彼はひとり、洗濯物をたたみながら
こんなことを思い巡らせていた。
子どもの頃、彼にとって切実なことを、
その表層だけをすくって安易に言葉にし、
皆と共有したがる大人たちが大嫌いだった。
自分の大事な秘密をひっつかんでは、
笑いものにする大人たちが大嫌いだった。
大人たちの口にする「かわいいね」という言葉に、
彼はいちいち腹を立てた。
おもちゃのように、気なぐさみのように
彼を扱う(ようにみえる)大人たちに、
醜さと嫌悪を感じていた。
分類、慣例、家族、世間、
疑えば疑うほど、彼にはそれらが
子どもを巧みに処理するための
大人たちの道具立てに思えてならなかった。
息子には、彼と同じ思いをさせたくない、
息子の切実さを余さず汲んであげたい、
あらためてそう決心した矢先の
妻と息子の悪意のない風呂上がりだった。
――息子は妻の方に似ているのかもしれない――
寝室に閉じこもった彼は、醜い憎悪と嫉妬の混じった
自身の考えに、もっとも強い怒りを覚えていた。
大人の笑いには、必ずあざけりが含まれている。
そういう観念に染まらざるを得ないような環境で、
彼は少年時代を過ごしてきた。
彼自身が見せるあざけりの笑いに気づかない
(ように見えた)大人たちを、
そして、そういう大人になっていく
(ように見えた)友人たちを、
外には出さぬように心がけながら、
心底軽蔑しながら、彼は生きてきた。
――彼が悪いのか、大人たちが悪いのか――
――彼の息子があざけりの笑いを覚えるのが先か、
彼自身が息子を笑うのが先か――
――時代のせいだ――
奇しくも自身をそう納得させ、彼は布団を被った。
ドアの向こうから漏れてくる妻と息子のはしゃぎ声に、
――なんでそんなに怒っているの?――
そんな無神経な疑問が混ざっているように聞こえる
自身の汚れた思いに、彼は気が狂いそうだった。
その夜、彼は濡れたゾラを想念のうちに抱きしめた。
――だいじょうぶ、だいじょうぶ――
少年は、震えるゾラの背を撫でながら、
何度もそう言い聞かせている。
その半年前に死んだ優しい祖母が、
幼い彼に最期に読み聞かせてくれた絵本
「こんとあき」の一節だった。
少年とゾラは、いつだって部屋の中に入れない。
そんなことを思い返していると、
――息子は妻の方に似ているのかもしれない――
その考えは、ゾラに寄り添う彼にとって、
救いに変わっていた。
いつの間にか、彼は眠りについていた。
月曜日の朝、彼は再び勤め先に電話をかけた。
「そうか。明日ダメだったら診断書もらってきてな、
手続きいるから」
彼は上司の冒頭の一言に、あざけりの笑いを感じとっていた。
電話の切れた音も、やはり無慈悲だった。
ここでも同じように、悪意は微塵もない。
その日は、息子のランドセルが届く日だと
妻から知らされていた。
彼は、彼自身の季節の境目に、
ひとり立たされていた。
――僕のせいだ――
彼は何かを諦めた。
彼自身、それが何であるか
うまく言い表せない何かを。
雨上がり、少年は、
少年とゾラだけの秘密を、彼に告げずに去っていった。
しらじらしく彼の中で流れ出した
いつしかのザ・コーデッツのロリポップに、
彼は頭を揺らした。
――過ぎ去ったことだ――
そうして、三人が揃う二日目の、
穏やかな休日が、仮初めの休日がはじまった。
彼のことをほんとうに心底からあざけり笑っているのは、
おそらく彼自身のみである。
彼の記憶の中に宿る、
人間にはのぞむことのできない
ゾラのような純粋な優しさたちに別れを告げるとき、
もしかしたら彼は、
今までの彼を哄笑し、生まれ変わった彼を
寛容の笑いで迎えることができるのかもしれない。
彼は大人としては未熟であるのかもしれない。
ただ、「それはゾラのせいだ」、
そう軽々しく口にする傍観者を、
現代のエセ心理学者を、
僕は心の底から軽蔑する。
彼以外、彼のことを
決してあざけり笑ってはいけない。
孤独のうちに、ひとり彼が背負い
堪え忍んでいるのは、
きっと大人たちのせいでもあるし、
おそらく時代のせいでもあるのだから。
彼に対するあざけりの笑いは、
この世に長く存在することのできない
純粋さに対する最低最悪の冒瀆なのだから。
少年は、彼に与えられたものだけで、
その時代その時代を
懸命に生きようとしているのだから。