白に戻るための無題
「あなたは園のどの木からでも
心のままに取って食べてよろしい。
しかし善悪を知る木からは
取って食べてはならない。
それを取って食べると、
きっと死ぬであろう」
旧約聖書『創世記』
智恵の実や
神の造りし
逃げの道
知恵の樹は、
満たされること知らぬ神様の全能
その象徴に見えてならない。
「楽園追放」「原罪」、
この二つは人間だけの特権ではなく、
秘密を共有するときに芽生える、
罪深い関係性を象徴しているように
思えてならない。
「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」
旧約聖書『創世記』
ひとりでいるのが良くないのは、
人間に限らない。
神様と
呼ばれる人や
すいか割り
誰のものであれ、
罪と孤独を見つけたら
抱きしめてあげなければならない。
そんなきれいごとに汚れるたびに
みじめになる。
ここには、善悪も、強弱もない。
みじめさだけが、
強い言葉たちの主張する
善悪やら強弱やらの猥雑の中に
大人たちに囲まれたこどものように
身を縮めている。
大人たちに流されてしまったわたしと、
そこにとどまりつづけるみじめさと、
その距離感は、
わたしの外にある言葉たちに
支配されてしまっている。
「光あれ」
旧約聖書『創世記』
最も欲しかったものを最初に望んだ、
それだけのことに過ぎない。
救いようのないほど深い穴の底から
見上げるそれは、空とは言わない。
ほんとうは、
もらえていなかったのかもしれないし、
ほんとうにほしかったものは、
それじゃなかったのかもしれない。
それは分からない。
でも、知らないではすまされない。
ほんとうは、
生まれる前から知っていたのかもしれない。
神様は、誰に光を望んだのだろう。
わたしがみじめさに苛まれるとき、
頭の中に浮かんでくる顔という顔が
わたしを助けてくれる人ではなく、
わたしの身勝手な憎悪に汚したい人に
なってしまったのは、いつからだろう。
「光」ってなんだ。
造られた者に生じた疑問は
造った者と共有しなければならない。
きれいごとに、汚れるな。
今、「共有」と呼んだものは、
憎悪に満ちた意地悪な非難に過ぎない。
光なんてない。
光ろうとする、
それだけしかない。
それがわたしに与えられた
ただひとつの創造の力なのかもしれない。
神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
旧約聖書『創世記』
八日目からが、
はじめの言葉、その成就のための、
わたしたちとの共同作業だ。
きれいごとから汚れきったところから、
ほんとうの仕事をはじめたい。
この気持ちだけは、
きれいごとにはしたくない。
善悪や強弱なんて、もう分かりたくない。
生まれる前から知っていることから、
忘れようと努めた暴力への後悔から、
もう一度、はじめたい。
救いようのないほど深い穴の底から
神様ともう一度、
新たな約束をしたい。
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