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過去と思索3 私はこう思考する

……日はすでに暮れて、箱橇が雪の上を
軋りはじめた。
君たちは悲しげにわれわれの跡を見送っていた。
そしてこれが埋葬であり、永遠の別れとなるなどとは
思ってもみなかった。
すべての者がそこにいた。
ただ一人だけ、親しい者の中の、
最も親しい者が欠けていた。
彼はただ一人だけ遠くにいた。
あたかもわたしの出発を、自分の不在によって、
傍観するかのように。

『過去と思索』西欧小論集 その一 1 夢 ゲルツェン


すべてがそろっているようで、
そこに足りないもの。
「足りないもの」、
それがその場を支配してしまうこと。


「完璧」は「十分」の敵

『私はこう考える』 オードリー・タン


完璧は「ぎょく」。
それは掴みどころがなく、どこから見ても同じ。
「完璧」は、思考も行為も寄せつけない。
触れられない、触れることを赦されない。
ゆえに退屈、物足りない。

「足りないもの」、
それは「勾玉《まがたま》」。
掴みどころはあるが、逃げてしまいそうな
かたち。
シッポをつけた玉、追いかけたくなるような
かたち。

すべての者がそこにいる。
はずなのに、最も親密な者が欠けているという
ゲルツェンのほころび。
そしてその者が、その者の不在が、
彼の出発を「傍観」しているという。
ゲルツェンの夢は、そこからはじまる。

「足りないもの」、それは
「客観らしきもの」を与えるもの。
外からのまなざし、緊張感。
「かりそめのかたち」で居させてくれるもの。
裂け目、逃走、動きをもたらすもの。

「悲しみの送別」、「埋葬」、「永遠の別れ」、
それらをひっくり返す装置、
それが「足りないもの」。
この折り返しとなる中心点が、
「悦びの出迎え」、「復活」、「偶然の出会い」
をもたらす。



「足りないもの」、それは
自分の手の届くものを、曇らせ、腐らせ、
自分すらも「対象」としてしまう
悲しき欲望、それだけのものである
のかもしれない。



「足りている」と「足りていない」、それは
ひとつの玉の中で常にすれ違っている
ふたつの勾玉なのかもしれない。





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