今日の本 マクトゥーブ2 ヴィータ
意志がないからやらない、ちょっとした会話。
ないものとしている、ないものとあろうとしている。
思い浮かぶこと。
通勤電車。毎日が。スマホの稼働はギガ。
車両という空間、荷物が触れるだけで
擦れてしまう心、
イヤホンから漏れてくる音は
音楽ではなく、プラスチックの断片ども、
狭いのは空間ではなく心。
「意志がない」と
「意識していない」との違い。
「意志がない」とは
ある可能性を否定している状態、
のような気がする。
「見知らぬ人と話をしない」とは
見知らぬ人と、その人と会話している状態
を意識している。
「意識していない」とは
潜在性を肯定している状態、
のような気がする。
危険性もなく、不安もない、
潜在性が健全にはたらく状態。
「意志」とは、
何らかの危険性や不安を意識した
そのときにはたらく消極性なのかもしれない。
「重々しく見える」のではなく、
実際に重々しい。移動という苦痛。
人の目が、人の裾が、人の荷物が、荷物。
わたしは見知らぬ人、
そして見知らぬ人の荷物。
譲らない席と譲れない席、
後者は重々しい隠喩となる。
地下鉄、乗り換え、譲れない席。
増えていくばかりの荷物。
距離とは重さそのもの、
目方は見誤ってばかり、
その上目遣いが、流し目が、
対象を重くする。傲慢に見せる。
車両の中、スマートホンだけが優等生、
なぜなら、
おさないはしらないしゃべらない
文字通りスマートなことしかできないキカイ。
失うものもまたキカイ。
そんな灰色の車両で
音無しき大人らの事情、何にも知らず、
おはなししている子どもの声が
天使すぎる。
だれもがほっこりしているはずなのに、
むっつりしている。
そしてそれぞれの「ディスプレイ」に
避難している、デスクトップ(机上)している。
いろいろな人生が黙ってスワイプしている
画面越し、イライラ色滅入てるだけの人生。
「意志がないからやらない」、
そのオブジェクト(object)が人生そのもの。
ロールプレイングは朝の通勤時間だけで
疲れるほどやりたくるのどんだけ。
「流され」に差し出す杖が意志。
自信があるように見せるその心は、
流されても平気という死んでる意志。
これが自分の地下鉄。日常風景。
毎日、通勤電車を意識している。
そして、「重々しさ」とともに
始業していることに、今気づく。
電車が揺れるごとに、
身体中につきささるプラスチック。
「距離」は重々しさと自信をもたらす。
まなざしがまなざしを生み出す、
これが「距離」の正体なのかもしれない。
「障る」と「触れる」の違い。
生理的不快感と生来的一体感。
カタリナは、彼女の家族により
ヴィータという収容施設に遺棄された。
みずからの存在をみずから抹殺してしまう人と、
みずからの存在を抹殺されまいと抵抗する人と、
両者における相対性から、
「意志」が、その本来のもつ強烈な光を
投げ出してくる。
「驚くべき主体性(agency)」
沈黙という壁と、言語という壁と、
どちらがたやすいだろうか、
どちらが困難だろうか。
無力なのは、人間よりも言葉。
それに気づいた者こそが
それ(言葉)に意志をもたせるために、
みずから意志をもつということ。
「見知らぬ人と話をする」、カタリナの動機は、
「関わりのあった人々と関わりをとりもどす」
とても純粋なものである。
本当の絶望の一歩手前にこそ、
救いというものがある。
カタリナにとって、それが『ヴィータ』
(VITA:生 ラテン語)であり、
その著者であった。
彼女のような者にこそ、
「驚くべき主体性(agency)」を発揮する者こそ
「他人の口を借りた天使の声」、
つまり後世に残る人間の謎と書物を
遺すことができると信じる。
「驚くべき主体性(agency)」、
それが研究者の客観性、非対称性を取り払い、
『ヴィータ』を享受する。
カタリナの記した単語の群が、
ヴィータというリズムになり、
「関わりを取り戻す」とき、
「見知らぬ人と話をする」意志が生まれるとき。