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今日の本 マクトゥーブ2 ヴィータ

 師は言う。
 意志。それは、少し立ち止まって疑問を持つべき言葉である。
 意志がないからやらない、ということはなにか。あるいは、危険が大きいからやらない、ということはなにか。
 ここで、われわれが「意志がないからやらない」ととれる事例をひとつ挙げよう。それは見知らぬ人と話をする、ということである。ちょっとした会話であろうと、見知らぬ人と話すことはほとんどない。そしてわれわれは、それでいいのだといつも思っている。
「人生」を手助けすることもなく、手助けされることもなく終わる。
 他人と距離をおくと、人というものは重々しく見えるし、自分に自信があるように見えるものだ。だが、実際には、他人の口を借りた天使の声を聞きそびれているのである。

『マクトゥーブ』 パウロ・コエーリョ


意志がないからやらない、ちょっとした会話。
ないものとしている、ないものとあろうとしている。

思い浮かぶこと。
通勤電車。毎日が。スマホの稼働はギガ。
車両という空間、荷物が触れるだけで
こすれてしまう心、
イヤホンから漏れてくる音は
音楽ではなく、プラスチックの断片ども、
狭いのは空間ではなく心。

「意志がない」と
「意識していない」との違い。

「意志がない」とは
ある可能性を否定している状態、
のような気がする。
「見知らぬ人と話をしない」とは
見知らぬ人と、その人と会話している状態
を意識している。

「意識していない」とは
潜在性を肯定している状態、
のような気がする。
危険性もなく、不安もない、
潜在性が健全にはたらく状態。
「意志」とは、
何らかの危険性や不安を意識した
そのときにはたらく消極性なのかもしれない。

「重々しく見える」のではなく、
実際に重々しい。移動という苦痛。
人の目が、人の裾が、人の荷物が、荷物。
わたしは見知らぬ人、
そして見知らぬ人の荷物。
譲らない席と譲れない席、
後者は重々しい隠喩となる。
地下鉄、乗り換え、譲れない席。
増えていくばかりの荷物。
距離とは重さそのもの、
目方は見誤ってばかり、
その上目遣いが、流し目が、
対象を重くする。傲慢に見せる。
車両の中、スマートホンだけが優等生、
なぜなら、
おさないはしらないしゃべらない
文字通りスマートなことしかできないキカイ。
失うものもまたキカイ。

そんな灰色の車両で
音無しき大人らの事情、何にも知らず、
おはなししている子どもの声が
天使すぎる。
だれもがほっこりしているはずなのに、
むっつりしている。
そしてそれぞれの「ディスプレイ」に
避難している、デスクトップ(机上)している。

いろいろな人生が黙ってスワイプしている
画面越し、イライラ色滅入いろめてるだけの人生。

「意志がないからやらない」、
そのオブジェクト(object)が人生そのもの。
ロールプレイングは朝の通勤時間だけで
疲れるほどやりたくるのどんだけ。

「流され」に差し出す杖が意志。
自信があるように見せるその心は、
流されても平気という死んでる意志。

これが自分の地下鉄。日常風景。
毎日、通勤電車を意識している。
そして、「重々しさ」とともに
始業していることに、今気づく。
電車が揺れるごとに、
身体中につきささるプラスチック。


木の枝の瓦にさはる暑さかな

芥川龍之介

「距離」は重々しさと自信をもたらす。
まなざしがまなざしを生み出す、
これが「距離」の正体なのかもしれない。
さわる」と「触れる」の違い。
生理的不快感と生来的一体感。


なぜ私はほかの誰かではなく、
カタリナとともに研究をすることを選んだのか。
彼女は、
みずからの存在が完全に抹殺されるという状況に
あくまで抵抗していた。
健康状態と悲運だけに
自らの存在が回収されてしまうのを
拒んでいたのだ。
彼女は関わりを求めていた。
生きることと知識に関する大事な何かが
そこにあると直感した私は、
それを逃したくなかったのである。
だが、完全な黙殺を味わってきたにもかかわらず、
彼女からは驚くべき主体性(agency)
伝わってきた。
カタリナの立場に立ってみてわかったが、
私たちの目の前には
言語という壁が立ちはだかっていた。
言語は分離ではなくつながりの基点なのだが、
それには読解力が必要になってくる。

『ヴィータ 遺棄された者たちの生』 ジョアオ・ビール


カタリナは、彼女の家族により
ヴィータという収容施設に遺棄された。

みずからの存在をみずから抹殺してしまう人と、
みずからの存在を抹殺されまいと抵抗する人と、
両者における相対性から、
「意志」が、その本来のもつ強烈な光を
投げ出してくる。
「驚くべき主体性(agency)」
沈黙という壁と、言語という壁と、
どちらがたやすいだろうか、
どちらが困難だろうか。


歯医者
ヘルスポスト(地方自治体の保健医療施設)
田舎の労働組合
環境団体
料理の腕前
台所と食卓
受講した
調理法
写真
精子
……
何者かを探る
本人証明
本人証明を持参する
健康
カトリックの宗教
援助
理解
リウマチ

『ヴィータ 遺棄された者たちの生』 ジョアオ・ビール (カタリナの『辞書』)


カタリナは、書き物を始めたと教えてくれた。
彼女はそれを「辞書」と呼んでいた。
「言葉を忘れないようにするために」やっているのだという。

『ヴィータ 遺棄された者たちの生』 ジョアオ・ビール


無力なのは、人間よりも言葉。
それに気づいた者こそが
それ(言葉)に意志をもたせるために、
みずから意志をもつということ。

「見知らぬ人と話をする」、カタリナの動機は、
「関わりのあった人々と関わりをとりもどす」
とても純粋なものである。

本当の絶望の一歩手前にこそ、
救いというものがある。
カタリナにとって、それが『ヴィータ』
(VITA:生  ラテン語)であり、
その著者であった。

彼女のような者にこそ、
「驚くべき主体性(agency)」を発揮する者こそ
「他人の口を借りた天使の声」、
つまり後世に残る人間の謎と書物を
遺すことができると信じる。

「驚くべき主体性(agency)」、
それが研究者の客観性、非対称性を取り払い、
『ヴィータ』を享受する。
カタリナの記した単語の群が、
ヴィータというリズムになり、
「関わりを取り戻す」とき、
「見知らぬ人と話をする」意志が生まれるとき。


カタリナは私にこう言った。
「わたしは、隠れて生きていたようなもの、
 動物ね。
 だけど、一歩ずつ踏み出して、
 あなたと一緒に事実を解きほぐし始めた」
自分自身のことを動物と呼ぶとき、カタリナは
これまで奪われていた人間としての可能性に
働きかけていた。
「わたしは科学と知恵のもつれを解き始めた。
 自分でほどくのがいいわ。
 思考もそうよ」

『ヴィータ 遺棄された者たちの生』 ジョアオ・ビール

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